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回复:猿神退治

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古代中国絵画の日本流入の第二段階は20世紀初めの30年間に起こった。この段階の中国画収集ブームの大きな推進力となったのは、当時の中日の学者間の実り豊かな交流であり、とりわけ我々が「前芸術史家」(Proto-art-historians)と呼ぶ人々で、こうした人々によって中国絵画史の構築の第一歩が踏み出された。1920年代に中国で出版された中国美術史は、日本人学者の早期の研究に負う所が大きく、日本を通じて西洋の発展史観の影響を間接的に受けていた。日本では、こうした新たな歴史的書籍やこれまでの関連知識の講演や雑誌での紹介などによって、豊かな財力を持つ日本の収集家が、自らの中国画のコレクションに大きな空白があることに気付き始めた。中国の鑑定家や収集家などによって定番とされた作品、南宗の文人や士人の絵、南宗文人画の源流となった宋元代の大家の作品は、「古渡」時代の「宋元画」のコレクションには欠けていた。
 日本の収集家はこうして、これらの代表的な中国画をぜひとも手に入れたいと考えるようになった。これらの収集家を啓蒙・教育し、中国画を日本で輸入販売するという二重の役目を負ったのが、京都で活躍していた学者や画商の集まりである。有名な人物としては、中国人学者で画商でもあった羅振玉(1866-1940)、画商の原田悟郎(1893-1980)、中国史家の内藤湖南(1866-1934)などが挙げられる。この時期に日本で規模を拡大した重要な中国画コレクションには、後に大阪市立美術館に収められた阿部房次郎の収蔵品、現在の京都国立博物館に専門の陳列場所が設けられた上野理一の「有竹斎」と名付けられた収蔵品、京都の小川睦之輔が持っていた王維の作とされる山水巻物、現在は惜しくも散逸してしまったが大阪の斎藤董盦が持っていた「董源」や「巨然」などの重要作品が含まれる。重要な個人コレクションの中には現在、私立博物館となったものもある。兵庫県の黒川古文化研究所には、大阪の黒川一族が持っていた董源の早期の作とされる絵画が収められている。しかし山本悌二郎の収蔵品にあった李公麟の「五馬図」はすでに破損してしまったものと考えられている。四日市の私立美術館「澄懐堂美術館」には、李成が描いたとされる「平林遠樹図」などの重要作品が収められている。
 日本にある中国画コレクションには、このほかにも明らかに不足していると思われるものがある。例えば、董其昌の流れを汲む正統派山水画家の作品や、さらに早期の元四家の作品は、日本ではほとんど収集されていない。


IP属地:辽宁来自Android客户端206楼2023-05-27 11:18
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    鑑賞方式や収集方式の違い
     中国の「鑑古図」(古物鑑賞図)に見られるように、中国人は、巻物や画集を机の上に広げて近距離から座って鑑賞するが、日本人はこの方法をあまり好まない。日本人が好むのは、単面の掛け軸を壁にかける鑑賞方法で、茶室の床の間に飾って鑑賞するのが理想とされる。その原因の一つは、一般の日本人の住宅には、大型の巻物をかけることのできるような壁や施設がないことにある(幕府や朝廷はもちろん別で、こうした場所には広い空間があり、もともと独立した中国画の掛け軸を組み合わせた三面画を飾ることもあった)。例えば、馬遠の「寒江独釣図軸」は、大型の掛け軸の一部を切り取ったものと見られ、絹本に横向きの亀裂があることがそれを裏付けている。絵の背景には波以外には何も見られないが、馬遠がこのような単一的な構図を取ることはない。また馬麟の「夕陽秋色図軸」はもともと見開きのもので、一方に書、一方に画を配したものだった。中国の収集家ならば書画を左右に置いて鑑賞するのが自然である。だが日本では、茶道の大家によるものか、これが上下の掛け軸にまとめられた。これまで宋代の絵画について講義をしていた学者は、この傑作について、水面の上空に書が置かれたこの掛け軸の構図にのっとって解説してきた。
     物語を語る絵巻を除けば、巻物は早期の段階において、日本人にはあまり好まれず、一部分の絵を切り出し、掛け軸として飾ることが多かった。牧渓が描いた野菜や果物、その他の品々を描いた巻物も、日本人が裁断し、こうして組み直され、柿や松の実などが単体で表現された現在の掛け軸となったと見られる。玉澗の「洞庭秋月図」や牧渓のものと伝えられる溌墨山水の傑作「遠浦帰帆図巻」は、もともと巻物の一部だったが、現在は単独でゆっくりと味わうよう掛け軸に作り替えられている。玉澗の「廬峰図」は、禅宗の影響を受けた収集家にとっては大きく複雑すぎたのか、画面左側の滝の部分が切り取られ、独立の掛け軸となり、禅の瞑想のために使われた。後世から考えればこうした手直しは惜しいことと思われるかもしれないが、これが保存されてきたということにまずは感謝しなければならない。
     中日両国の異なる文化の中で、絵画の収集にはどのような違いがあるのかという問題については、おおよそ次のように説明することができる。20世紀初頭の第二段階においては、日本の収集家は、中国の評価や収集の伝統に倣い、中国の収集家とほぼ同じ趣向で作品を購入した。これに対し、早期の「古渡」の時期には、両国の収集文化は大きく異なっていた。元代から、中国で影響力を持つ批評家は収集家に対し、熟練した技巧や真に迫った描写、高い気品など、南宋院体画に独特で別格な地位を与えていた要素には、もはや大きな価値はないと繰り返してきた。これに取って代わり、筆使いの絶妙さや個性的なタッチ、伝統的な流派の優雅な視覚的要素の再現、作中に表現された捉えどころのない「気韻」(Spirit Consonance)が、作品の価値をはかり、収集品を選ぶ基準となった。こうした評価基準は、当時の日本人にとっては到底理解されるものではなく、宋代院体画のスタイルは日本では依然として人気を保ち続けた。また「古渡」の時期に輸入された「宋元画」のうち、「禅宗画」と言われるジャンル(何をもって「禅宗画」とするかは意見が分かれる)も注目に値する。中国では、こうした作品はほとんど例外なく批判・排除され、収集・保存されることはなかった。少なくとも重要な主流の収集品の記載の中にこうした作品の痕跡を探すのは難しい。
     中日両国の絵画収集方法には、このほかにも大きな違いがある。中国の収集家は、蔵品に大家の署名や捺印があることを望んでいる。もっとも、こうした署名や捺印は必ずしも信頼できるものではなかった。また彼らは、優れた作品を作っていても名の知れていない芸術家(Small-name Artists)には、目を向けようとはしない。王季遷氏は「偉大な作品は偉大な芸術家の手によるのだ」としている。すなわち、正統として名を馳せた(Orthodox Canon)芸術家だけが偉大な芸術家だという見方が中国では根強い。日本ではこれとは逆に、中国の歴史書にはいかなる記録もない画家も含めてあまり名の知られていない芸術家の優秀な作品も大切にされている。宋代の宮廷画院の作品について言えば、中国の収集家は、大家・巨匠と言われる画家の署名や捺印のある作品や重要な人物の題跋の添えられた作品を重視し、その収集・保存に力を入れてきた。
     


    IP属地:辽宁来自Android客户端207楼2023-05-27 11:19
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      これに対し、「古渡」の時期に中国絵画を愛した日本人、僧侶や幕府の将軍たちはいずれも、南宋院体画風の作品を評価していた。これらの作品はいずれも画院には属さない無名画家の手によるものだったにも関わらずだ。現在、そのうちの多くは逸品とされ、その時代の傑作として正当な評価がくだされている。現代の人々は、過去の中国と日本の鑑賞・収集家に感謝しなければならないだろう。いつの時代にあっても、どこにいても、これらの収集家らは、互いに異なる趣味と信条をもって、これほどに豊かで多様な中国絵画を現在まで伝えてきた。中日両国のそれぞれ異なる収集の伝統に支えられ、古代中国の絵画はその壮大な様相を見せてくれている。我々としては実に幸いなことである。


      IP属地:辽宁来自Android客户端208楼2023-05-27 11:19
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