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《平妖传》
直待南林庵老僧请出一位揭谛尊神,布了天罗地网,遣神将擒来,现其本形,乃三尺长一个多年作怪的猕猴。那揭谛名为龙树王菩萨,刘谏议平时供养这尊神道,极其志诚,所以今日特来救护,斩妖绝患。诗曰:
  人生切莫畜猕猴,野性奔驰不可收;
  莫说灯花成怪异,寻常可耐是淫偷。
  那猕猴似人之形,性最灵巧,就是寻常爬窗上桌、开盘倒瓮、扯袖牵衣、搔虱子、弄鸡巴,气质十分不雅。况且多年,岂不作怪?又有长大一种,其名为猿,尤为矫捷。那猿内又有一种通臂的,两臂相通,随他伸那边一只臂,这边一只就缩进去,做一条臂膊舒将出来。所以善能缘崖登木,人若把箭去射他时,右来右接,左来左接,近来近接,远来远接,全然不怕。还有年深得道的,善晓阴阳,能施符咒,神通广大,不可尽述。怎见得,但见:
  生居申位,裔出巴山,生居申位,申阳官子孙聚居,裔出巴山,巴西侯宗族蕃衍。柔肠易断啸月明,谁不含悲?长臂能通登树杪,何愁善射?数学传风后,谁知是前代历师,刀法授云长,错认做人间剑侠,神通却是降龙祖,变化平欺弼马温。
  话说春秋周敬王时,吴越交争,吴王夫差,围困越王勾践于会稽山之上,亏得下大夫文种,卑词厚礼去请行成,吴王依允,将越王夫妇摘去冠服,囚于石室之中,替吴国养马三年,方始放回。越王一心要报此仇,想吴国有鱼肠之剑三千,难以抵敌,有上大夫范蠡献计,挑选六千君子军,朝夕训练;访得南山有个处女,精通剑术,奉越王之命,聘请他为国师。那处女收拾下山,行到半途,逢着一个白发老人,自称袁公,对处女说道:“闻小娘子精通剑术,老汉粗知一二,愿请试之。”处女道:“妾不敢隐,但凭老翁所试。”袁公觑着树梢头,透出一竿枯竹,踊身一跳,早已拔起,撇向空中坠下。那根竹迎着风势,咶喇一声折作两段。处女接取竹梢,袁公接取竹根,袁公就势去刺那处女,那处女不慌不忙,将竹梢接住,转身刺着袁公。袁公飞上树梢头,化为白猿而去。原来处女不是凡人,正是九天玄女化身,因吴王无道,玉帝遣玄女临凡,助越亡吴。那袁公是楚国中多年修道的一个通臂白猿,因楚共王校猎荆山,他连接了共王一十八枝御箭,共王大怒,宣楚国第一善射有名百步穿杨之手,唤做养由基,前来射他。白猿知养由基是个神箭,躲闪不及,一溜烟走了。共王教大小三军围住山头,搜寻无迹,把一山树木放火都烧了,至今传说楚国亡猿,祸延林木,为此也。那白猿从此躲入云梦山白云洞中,潜心修道,今日明知玄女下降,故意变作袁公,试他的剑术。后来处女见了越王,教练成了六千君子军,也不回复范蠡,也不拜辞越王,迳自飘然而去。有诗为证:
  玄女神机岂妄投,六千君子只凡流;
  要知天上些须妙,已是人间第一筹。
  


IP属地:辽宁来自Android客户端190楼2022-06-24 01:33
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    话说处女下了南山,来於越国,那时有越王差来迎接人众,香车宝马,自不必说。今日不辞而去,却未免独自一身,半云半雾,行至旧路,只听得茂林之中一声叫道玄女娘娘,一声叫师父。处女按住云头,将慧眼一看时,原来正是袁公双膝跪下了,双手捧着一个石盘,盘中列着四般长命果,口中只叫道:“师父,可怜弟子一片诚心,收留教诲则个。”且说那四般长命果品,是榛子、松子、榧子、核桃。假如东南橘、柚、杨梅,西北林檎、梨、枣,此等并为佳品,要之只算时新,不堪长久。只有那四般藏住壳内,风吹不干,雨打不湿,久而如新,所以谓之长命果,永为山家之积粮也。后来丹青家有白猿献果图,即此故事。当下袁公放下石盘,连连磕头,又唤道:“师父是必收留弟子在这里。”那处女被他识破是九天玄女娘娘化身,道:不期这老儿到也利害,又见他十分志诚,便将他所献四般果品,每一件取他一个,这是领他的情处,其余都向越王差来人役布施功德。当下袁公就茂林中,端端正正,双膝跪拜,玄女受了,向袖中取出圆眼般大两个弹丸儿,付与袁公。袁公将双手接着,安放掌中,看这弹丸儿好一似生铁铸成,不甚光彩,袁公口虽不语,心中疑惑,想道:若是粉做的两个团子,到好充饥,便是银打的,也不上二两多重,不济甚事;若只是两个铅弹儿,我老袁又不学打弹,要他做甚?这里心下踌躇,那边玄女早已知道,便向那弹丸上吹一口气,叫声“疾”,只见放起光来,须臾之间,左一跳,右一跃,如两条金蛇缠绕盘旋,只在头上颈下一往一来,迸出寒光万道,凛冽难当;耳中如闻千刀万刃击刺交加之声,吓得袁公紧闭双眼,口中只叫:“好师父!弟子已知师父神威,饶恕俺则个。”原来这两个弹丸,就是仙家炼成雌雄二剑,能伸能缩,变化无穷,若摄了光时,只如两个铅弹相似,倘跳跃起来,能于百万军中,横行直撞,来如箭,去如风,所以仙家飞出铅弹,百出百中。今日玄女只是小小弄个神通恐吓袁公,虽然利害,只削去了些头毛眼毛,其他并无损伤。若心不至诚时,一万颗头也取下来了。玄女当时把袖一拂,摄了剑光,依然两个铅弹子儿,收入袖中去了。袁公才敢开眼,吓出了一身冷汗,半响开不得口;从此死心塌地跟随玄女直至南山,终日摘花献果供奉。玄女怜他小心谨慎,把剑法尽传与他,袁公依样炼成雌雄二剑,收藏袖中,亦能变化,欢喜不尽。
      此时越王已将君子军六千,直入吴国,伐了夫差,独霸江东,思想起玄女前功,再遣人于南山寻访,更无踪迹,即令建仙女祠于南山之上,岁时祭祀不绝。你道为何寻访不着?这里越国成功,那边玄女便上天回复玉帝去了;况且神仙妙用,要现便现,要隐便隐,亦非凡人之可测也。
      且说玄女带袁公上天,朝见了玉帝。玉帝见袁公好道,封为白云洞君,教他掌管着九天秘书。何谓秘书?凡是人间所有之书,不论三教九流,天上无不备具,但这天上所有之书,人间耳未闻目未见的,也不计其数,所以就总唤做秘书,就金匮玉箧收藏。每年五月端午日,修文舍人来查点一次,此乃修文院之属官也。袁公虽然掌管,奉有天条禁约,等闲也不敢私自开发。忽一日间,正值西天金母蟠桃胜会,玉帝引着一班仙官将吏,都往昆仑山瑶池赴宴。怎见得?有这古风一篇为证:
      昆仑乃在赤水阳,古称地首天中央。星晨隔辉挂天柱,日月引避行其旁。瑶房积石开玄圃,宝树琪花颜色古。中有蟠桃万丈高,含蕊千年才一吐。千年结实千年熟,渥丹斗大如红玉。此时王母开寿筵,十万仙真共欢祝。寿筵高启碧琳堂,凤锵鸾舞纷迥翔。玉童前驱执羽盖,灵妃后列吹笙簧。琼浆饮罢颜婀娜,玉盘托出神仙果。食之寿与天地齐,安得偷尝一二颗。
      


    IP属地:辽宁来自Android客户端191楼2022-06-24 01:35
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      袁公虽云修道,未登正果,且是天宫有执事的人员,因此不得随行。他本是个最好吃果子的,闻说蟠桃如斗之大,三千年方始开花结果一次,吃此桃者寿与天齐,如何不口内流涎。心中纳闷,便于袖中取出两个弹丸,吹口气,喝声“疾!”化成雌雄二剑,左一跳,右一跃,戏舞了一回,将袖儿一拂,摄了剑光,依旧收藏袖内。正在无聊之际,猛然想起,自家掌管着许多秘书,未曾展玩,今日且偷看一会便怎地?一头说,一头便把双眼溜去,只见那金匮玉箧,都编得有三教九流各类字样。袁公觑着许多儒字号,口中喃喃的道:“那秀才买卖,莫去缠他。”指着佛字号,又道:“那黄脸老儿,也不好相处。”看到道字号,道:“这是我老袁的本业。”中间一个小小玉箧儿,面上横着无数封记,原来这箧儿每年修文舍人来检视时,加上御封一道,只见封不见开,袁公暗忖道:这重重封记,必有妙处。扯开御封,把双手去揭那箧盖时,却似一块生成全然不动。袁公连叫作怪,若是铁打的箧儿,只恐年远锈结了,这是美玉琢成的,直恁牢紧,不知那个玉工做下的,若与老袁商量,再细细光去一层,便好开闭了。说罢,抖擞平生的精神,又去狠揭一下,那玉箧儿恰似重加钉钉,再用金镕,休想动得一毫。看官听说,若是寻常猢狲两番揭不起,未免焦燥,拿起手去捶,脚去踏,头去撞,都是有的;那袁公毕竟多年修道,火性已退的,如何肯造次。当下慌得他双手捧着玉箧,屈下两只老腿,叫道:“吾师九天玄女娘娘,保佑弟子道法有缘,揭开箧盖,永作护法,不敢为非。”连磕了三四个头,爬起来,把玉箧再揭,那箧盖随手而起,内有火焰般绣袱包裹。打开看时,三寸长,三寸厚,一本小小册儿,面上题着三个字,叫做如意册;里面细开着道家一百零八样变化之法,三十六大变,应着天罡之数,七十二小变,应着地煞之数,端的有移天换斗之奇方,役鬼驱神的妙用。袁公心下大喜,道:“只此一书,够我老袁受用矣!一世从师受道,今日到手时,还是我自家简得,正是早知灯是火,饭熟几多时。”
        袁公手中捻着本如意册儿,长啸一声,飞下云端,竟往云梦山白云洞中钻去,那里猿子、猿孙和着一派大小猢狲之类,跳舞欢欣,都上前拜见。袁公道:“我今得这本册儿,做个传法教主,得道之日,你们一个个都好了。你们可把洞中两边峭壁,与我削平,我有用处。”众猿听了,一齐与他,那个不踊跃向前,凿的凿,磨的磨,霎时将两边峭壁,弄成一片镜面相似。袁公取出笔墨来,放在桌儿上,磨得滋润,蘸得笔饱,向西边壁上写着三十六天罡大变法,又向东边壁上写着七十二地煞小变法,却教众畜动起锤凿,刻成三分深字样。袁公笑道:“人说天上无私缘,如何也有个私书。你做三十三天老大皇帝,直恁私刻,我老袁且与人为善,你们众弟子孩儿,要学法的尽着去学。”众畜道:“苦也!俺们怎理会得?全仗老公公教导。”袁公道:“丫头做媒,自身难保。我老袁但能记诵,尚未得手哩。且慢,消停半月十日,等待玉皇老头儿不言不语时节,我老袁给个宽假,到于本洞中,逐节与你们演习”说犹未了,只听得轰轰的一片声响,众畜道:“雷鸣了,想是天变也!”袁公道:“这不是雷鸣,乃是天门上报鼓响。凡天宫有刑狱问断之事,便鸣着报鼓,儒书上所谓鸣鼓而攻也。你们紧守洞中,我老袁且上去点个卯,探听个消息。”说罢,踊身一跳,早出洞口,冉冉望天门而去。只此一去,有分教:袁公犯一次不赦的天条,设一重不轻的法愿。正是:
        会施天上无穷计,难免今朝目下灾。


      IP属地:辽宁来自Android客户端192楼2022-06-24 01:36
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        ……
        供状:袁公不知年岁,向在云梦山白云洞住居修道,因本师九天玄女娘娘举荐,蒙帝恩封为白云洞君,掌管九天秘书,属修文院,典守多年,并无过失。近因九天仙真俱赴蟠桃寿宴,自念道微德薄不得从行。不合私发天封,欲窥秘册,两遍揭取箧盖不遂。志心祝祷本师九天玄女娘娘保佑,方始开箧见书。妄意天上无私,欲作人间不朽,辄将册文镌于白云洞壁,缘法自信,专擅难辞,然皆好道本心,并无私念邪谋。倘蒙赦宥,情愿专心护法,不敢妄泄凡人,如有违心,天诛地灭,所供是实。
          北斗星君看罢供状,笑道:“到好说得身上十分干净。”袁公跳将起来说道:“我老袁不但身上干净,心里也干净,说一是一,说二是二,不比他人言三语四。”舍人和左右都笑起来。当下星君和舍人起身,引着袁公迳到灵霄宝殿,回奏玉帝道:“袁公犯罪虽深,情词可悯;况且混元老祖曾遗下四句云:玉箧开,缘当来;玉箧闭,缘当去,缘者袁也,或者袁公有缘,所以玉箧自启。他既无邪心,宜看九天玄女面上,从宽释放为便。”玉帝准奏,免其死罪,革去白云洞君之号,改为白猿神,着他看守白云洞石壁。又先发下天符一道,着本境城隍土地,逐去猿子猿孙,一切党类,十里之内,不许停留,单单只容一个袁公居住。如若妄传凡人,生灾作耗,一体治罪。袁公谢恩已毕,玉帝传旨,将御前白玉宝炉赐与袁公。


        IP属地:辽宁来自Android客户端193楼2022-06-24 05:54
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          《焦氏易林》
          南山大玃,盗我媚妾,怯不敢逐,退然独宿。


          IP属地:辽宁来自Android客户端194楼2022-06-24 09:46
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            明智光秀
            荒深小五郎として明智光秀は生きた!?山県市に残る【桔梗塚】
            20215/13
            明智光秀
            2021年2月19日2021年5月13日
            岐阜県山県市にある明智光秀のお墓とされる「桔梗塚」、光秀の産湯の井戸、行徳岩を見てきました。
            山県市には、光秀は羽柴秀吉との対決である山崎の戦いでは、亡くならず荒深小五郎と改名し、山県市で生きたとする伝承があります。
            また、山県市は光秀の誕生説があり産湯の井戸、光秀のお墓もあります。
            山県市に伝わる光秀の伝承とはなんでしょうか、山県市を訪ねてみました。
            目次
            明智光秀が荒深小五郎となったとする説
            山県市のお墓「桔梗塚」と産湯の井戸
            山県市、桔梗塚近くの「行徳岩」
            山県市中洞を訪れて思ったこと
            桔梗塚へのアクセス
            明智光秀が荒深小五郎となったとする説
            明智光秀のお墓は複数ありますが、その内の一つは、「岐阜県山県市中洞」にあります。
            光秀は山崎の戦い後、落ち武者狩りに遭い討たれたとするのが通説ですが、生存説もあります。
            光秀の生存説は「天海」になったとする説が有名ですが、山県市には「荒深小五郎」になり生存したとする説があります。
            落ち武者狩りに遭い亡くなったのは影武者の「荒木山城守行信」(あらきやましろのかみゆきのぶ)という人物で、光秀は生き延びて、西洞寺の林間に隠れ住んだという伝承が残っているのです。
            『荒深家文書』によると、荒木山城守行信が光秀に、未だ最期の時でないので逃れて再起をはかってくださいと言い残し、敵に「われこそは明智光秀なり」と言い打って出たそうです。
            その後、荒木山城守行信は落ち武者狩りに遭い、竹藪で落命したそうです。
            荒木山城守行信は、丹波の八上城主・波多野氏に仕えた人物で、光秀の丹波平定後に光秀の家臣になったものと思われます。
            光秀は荒木山城守行信の忠節に感謝し、自身の名を「荒深小五郎」と変名したとされています。
            荒木の「荒」と深く感謝しての「深」を取り「荒深」とし、子孫に荒木山城守行信に命を助けてもらったことを口伝したと云われています。
            そして荒深小五郎は、西洞寺の林間に乙寿丸と一緒に隠れ住んだという言い伝えが残っているのだそうです。
            その後、関ヶ原戦いが起きて、徳川方に加勢をするために向かう途中、洪水に遭遇して、根尾村の藪川で馬と共に流されて溺死してしまったと云われています。
            享年は75歳(73歳とも)であったそうです。
            荒深小五郎の遺体は、荒木山城守行信の子供である吉兵衛により、山県市に埋葬されたそうです。
            このような経緯で、光秀のお墓とされる「桔梗塚」があり、現在も荒深一族が管理しているそうです。
            宝永6年(1709年)頃、尾張藩士・天野信景が書いた随筆集『塩尻』にも、光秀が中洞に隠れ住んだことが書かれています。
            ただ、光秀が隠れ住んだ時に使った名前は「荒深小五郎」でなく、「荒須又五郎」と書いてあります。
            「荒深小五郎」が光秀かどうか、真偽は不明ですが、地元・山県市中洞の人は、光秀が子孫を残して下さったと信じている方も多いそうです。
            また、山県市中洞には、荒深姓が多く、現在でも4月と12月に「明智光秀公供養祭」が行われているそうです。
            それでは「桔梗塚」を見に行ったレポートをさせていただきます。


            IP属地:辽宁来自Android客户端195楼2023-01-13 12:47
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              山県市のお墓「桔梗塚」と産湯の井戸
              車で向かいましたが、高速を降りて下道を十数キロ走りました。
              光秀のお墓だという「桔梗塚」があるというところに到着すると、まず目に入ってきたのは、光秀が信仰していたという「白山神社」でした。
              とても駐車場がありそうな雰囲気ではないので、白山神社の手前に車を停めます。
              この日は、地元の?テレビ局と思われる方がいらっしゃりました。
              邪魔になってしまいそうなので神社には入りませんでした。
              また、テレビ局の方に「よくここまで来ましたね」と驚かれました…。
              私もテレビ局の人がいらっしゃって驚きました。
              光秀が主役の大河ドラマが放送されるとはいえ、アクセスしずらそうな場所にある上、なかなかマニアックな場所に思えたからです。
              ともあれ、白山神社に隣接した高台にある「桔梗塚」に向かいます。
              下の写真のように光秀の旗が沢山建っているので、白山神社まで来たらすぐ分かりました。
              山道の中にあるのですが、入り口には、お墓である「桔梗塚」の説明が書いてある看板もあります。


              IP属地:辽宁来自Android客户端196楼2023-01-13 12:48
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                墓石は何て書いているかハッキリわかりませんでしたが、下の写真の石塔には「惟任日向守光秀公」と彫られています。
                静かなところでした。
                五輪塔の下には荒深小五郎(光秀)の亡骸、宝篋印塔下には経文が埋められたと伝承があるそうです。
                「桔梗塚」の由来は、土岐氏の家紋・桔梗紋です。
                土岐氏の分家筋に当たる明智氏の家紋も桔梗紋ですが、山県市の伝承によると、光秀の生家は土岐家で、後に明智家の養子になった!?と云われているそうです。


                IP属地:辽宁来自Android客户端197楼2023-01-13 12:48
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                  山道を下りて、先ほどのお墓の説明板の横に光秀の「産湯の井戸跡」があります。
                  光秀の生誕の地は、候補がいくつもあり定かになっていません。
                  詳しくは別記事に書いています↓。
                  明智光秀の出生地|可児市明智荘、恵那市、山県市、多羅城、滋賀県多賀町
                  山県市中洞にも光秀の生まれた地として伝承が残されており、この井戸が、光秀の産湯に使う水を汲んでいたと云う井戸だそうです。


                  IP属地:辽宁来自Android客户端198楼2023-01-13 12:48
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                    大永6年(1526年)8月、光秀は、土岐元頼(とき もとより)の子として、山県市中洞の古屋敷で生まれたそうです。
                    母は、豪族である中洞源左衛門の娘・お佐多(後に松枝)です。
                    土岐元頼は、美濃守護土岐成頼の四男ですので、光秀は守護土岐氏の嫡孫となります。
                    土岐氏は、土岐源氏の流れを汲み、美濃を200年治めた名門です。
                    その後、光秀が7歳の時に、父・元頼が亡くなります。
                    生前の元頼の願いにより、祖父・中洞源左衛門は、可児市瀬田長山にあった明智城に光秀を連れ、土岐氏の分家筋である明智光綱に預けました。
                    明智光秀の伝記を読むと、明智城主・明智光綱が光秀の父ではないかと、有力視する書籍が多いように思います。
                    ですが、山県市の伝承によると、光秀が11歳になった天文5年(1536年)、明智光綱の養子になったそうです。
                    ただ、この説は一般には認められていませんし、光秀の生年が大永6年(1526年)説も、現時点では否定的な意見が殆どに思えますが。
                    山県市、桔梗塚近くの「行徳岩」
                    白山神社の近くに武儀川(むぎがわ)という川があるのですが、この川にも光秀にまつわる話が残されています。
                    光秀の母が妊娠中に、「生まれる子が男の子なら、天下を取るような立派な男の子を授けてください」と水垢離をして願ったとされる「行徳岩」(ぎょうとくいわ)があります。
                    また、「もし女の子であったら、天下一の美女をおさづけ下さい」とお願いしたそうです。


                    IP属地:辽宁来自Android客户端199楼2023-01-13 12:49
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                      行徳岩
                      行徳岩への住所:〒501-2258 岐阜県山県市中洞地内 武儀川 美山大橋下流
                      山県市中洞を訪れて思ったこと
                      私は、山県市中洞が光秀の出生地であることや、光秀が荒深小五郎となったとする説も信じていません。
                      史実でなくても史跡が残っていることは珍しくありませんし…。
                      また、光秀と共に山県市中洞で暮らしたと伝わる乙寿丸の存在は、伝承の域をでないとされています。
                      漢字は違いますが、於隺丸(おづるまる)の子孫との伝承を持つ人に『本能寺の変 431年目の真実』などの著者である明智憲三郎氏がいます。


                      IP属地:辽宁来自Android客户端200楼2023-01-13 12:50
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                        京都の山城(やましろ)に匿われ、明田(あけた)姓を名乗ったそうです。
                        こちらの於隺丸も伝承で、存在は認定されていませんが、伝承のオズマルが二人もいて興味深いなと思いました。
                        山県市中洞は、光秀の子供など近しい人物が隠れ住んだ場所である可能性がありそうに感じます。
                        桔梗塚へのアクセス
                        アクセスは車が良さそうです。
                        最寄りのバスでさえ15分かかるそうですし、電車の最寄りはないそうです…。
                        〒501-2258 岐阜県山県市中洞1020番地 中洞白山神社
                        (※〒501-2258 岐阜県山県市中洞2258 こちらの住所で記載している場合もあるようです。)
                        その他の光秀の生存説はこちらです。

                        進士藤延として明智光秀は生きた!?とする説
                        明智光秀は生きて天海という僧侶になったとする説を検証する
                        於隺丸(おづるまる)の子孫との伝承を持つ明智憲三郎氏など子孫についての記事はこちらです。


                        IP属地:辽宁来自Android客户端201楼2023-01-13 12:50
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                          IP属地:辽宁来自Android客户端202楼2023-01-13 12:52
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                            文化の交差点
                            【14-03】日本における中国古代絵画
                            中国絵画には遥かな歴史があり、2千年以上前の戦国時代にはすでに、絹織物の上に描いた「帛画」(はくが)が存在していた。前漢・後漢と魏晋南北朝の時代には、支配地域の外からやってきた文化と中国本土の文化との衝突と融合が起こった。この時期には、宗教絵画を中心としながら、本土の歴史的人物を描いたり文学作品を題材としたりした作品も一定の割合を占め、さらには山水画や花鳥画の萌芽も見られた。隋代と唐代には社会や経済、文化が高度に栄え、山水画や花鳥画は成熟期に入り、宗教画はすでにピークを迎えて世俗化の傾向を示し始めていた。人物画は、貴族の生活を描いたものが中心で、時代の特徴を示す人物像が作られた。五代と北宋・南宋の時代には、さらなる成熟と繁栄が見られ、人物画は世俗の生活を題材とするようになり、宗教画は次第にすたれ、山水画や花鳥画が画壇の主流に躍り出た。さらに文人画の出現とその後の発展は、中国画の創作理念と表現方法を一層豊かにした。元・明・清の三代には、水墨山水画と写意花鳥画とが大きく発展し、文人画と風俗画が中国画の主流となった。社会経済の安定によって文化芸術分野は空前の繁栄を見せ、生活意欲が高まり、芸術への崇拝に満ちた多くの偉大な画家が現れ、歴代の画家たちが後世に名を残す名画を描くこととなった。
                             日本は、中国古代の絵画作品の豊富なコレクションがある国として、また中日文化交流の過程において極めて重要な歴史的位置付けがなされる。本稿では、米国の研究者・高居翰(James Cahill、1926年-2014年2月14日)氏の観点と文章を引きながら、中国古代絵画の日本での状況と両国での鑑賞方法の違いについて紹介する。
                             日本では、膨大な量の中国の早期絵画が収集されてきた。高居翰氏によると、中国絵画の日本への伝播には、主に二つの代表的な段階が存在している。二つの段階には時期的に長い間隔があり、その性質も多くの点で異なっている。最初の段階は、「古渡」(こわたり)と呼ばれる段階で、12世紀から14世紀の間に起こった。この時期に日本に伝わった中国絵画は「宋元画」と呼ばれる作品がほとんどで、当時の日本の僧侶や幕府の将軍らが鑑賞し収集していた特定のジャンルの絵画に限られていた。この段階において最も注意すべき点は、中国では重要視されていなかった絵画作品が収集されていることである。第二の段階は、20世紀初めの数十年に起こったもので、当時早期の作品を含む重要な中国の絵画作品が、日本のコレクターや買い手をめがけて日本市場に流れ込んだ。一般的な歴史書には、この第二の段階についての記載は少ない。第二段階で日本に流れ込んだ中国画には、「古渡」の時期における宋元画にはなかった南宗の名作や、中国で高い評価を受けている絵画も含まれ、そのうち多くの画家の作品は、早期の日本のコレクションには見られないものだった。


                            IP属地:辽宁来自Android客户端204楼2023-05-27 11:17
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                              中国古代絵画の日本伝来
                               これら二段階の間においても、中国画は日本に続々と伝わったが、いくつかの例外を除き、宋元絵画ではなかった。17世紀から19世紀初めの江戸時代には明清代の絵画が日本に伝わり、当時さかんだった「南画」やそのほかの流派のモデルとなった。当時は、画商が中国画を購入した後、長崎にこれを運んで売り出していた。長崎は当時、日本唯一の国際貿易港だった。中国の画商はこうした絵画を江南地区の栄えた市中で調達していた。この中には、中国人にはあまり人気はなかったが日本市場ではよく売れた作品もあった。明代の浙派や明代末の呉門、さらに龔賢らは、当時の中国人にはあまり評価されていなかった。長崎に運ばれた後、これらの絵は、競りを通じて日本の画商の手に渡り、本土の市場ネットワークへと流通した。九州から四国、関西、関東まで、日本の収集家はこうした絵がやってくるのを待望しており、芸術家らは中国から来た新たな画風をこぞって真似した。日本の名家による収集品には個人博物館にまとめられたものもあり、この種の中国絵画の収集品が充実している。
                               こうした絵画に対する当時の中国人の評価が低かったことは、これらの作品の今日的な価値を損なう理由ではない。西洋で収集された古代中国画、例えば、チャールズ・ラング・フリーア(Charles Lang Freer)や大英博物館の収蔵品には、従来の中国の鑑賞基準(Orthodox Chinese Criteria)に照らせば、卑俗("bad")と判断されるような作品も少なくない。とっくに散逸してしまったかもしれないこうした作品が保存されただけではなく、幅広い研究の対象ともなっていることは、当時の中国の文人の絵画評価の視野を大きく超えている。当時の中国の伝統的な批評家の鑑識・判断、それに画商や収集家の極めて偏った選別によって、現在残っている中国画は、その種類やスタイル、題材、数量において、驚くほど限定的なものになっている。一方、明清代にはできのいい絵画には詩や印を添え、宋元の絵画の雰囲気を出すという習慣が広く流行した。このことは、埋もれてしまったかもしれない作品の保存に結果的に役立つこととなった。
                               中国画が日本に伝わった第一段階である「古渡」はさらに二つの時期に分けられる。第一期の伝来は、12世紀後期から始まり13、14世紀にピークに至った。当時、日本の禅宗とその他の宗派の僧侶は、中国南方の有名な寺に仏法を求めに出かけ、主に浙江地域、少数は江蘇地域で仏法を学んだ。中国の僧侶が日本に伝道に赴くこともあった。宋元代には250人余りの日本の僧侶が中国で学び、約10年から15年滞在した。同時期には、中国からも約10人余りの僧侶が日本に渡った。こうして往来した両国の僧侶が日本に持ち込んだ絵画の一部が、伝統的な宗教的な性質を持つ「道釈画」であり、僧侶の肖像や仏教や道教の人物像などがあった。そのほかにも、こうした僧侶自身が好んだ作品や、贈り物とした作品が持ち込まれた。当時、江南地区で流行していた画家の作品もこれに含まれ、こうした作品は現在、日本以外にはほとんど残っておらず、毘陵派の無名画家による花鳥草虫画などが含まれる。この時期には、絵画は批評や収集の対象ではなかったため、画家の名声はほとんどこだわられなかったものと見られる。「古渡」の第二期は、室町時代早期の足利幕府であり、とりわけ初代将軍の足利尊氏(在職1338-1358)と第三代将軍足利義満(在職1368-1394)は、中国画の収集に大きな情熱を注ぎ、寺院もしくは再開された中日貿易を通じて作品を手に入れた。足利氏の当時の収集目録も残されており、さらに『君台観左右帳記』にも中国画家に関する簡潔な記録が残されている。この段階においては、特定の大家の作品が重んじられる傾向が見られ、宮廷画院の著名な大家のほか、作品上の署名や押印によってのみ確認できる大家の作品もあり、日本でだけ知られる大家も存在している。


                              IP属地:辽宁来自Android客户端205楼2023-05-27 11:18
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