澪標は川の河口などに港が開かれている場合、土砂の堆積により浅くて舟(船)の航行が不可能な場所が多く座礁の危険性があるため、比較的水深が深く航行可能な場所である澪との境界に並べて設置され、航路を示した。同義語に澪木(みおぎ)[2]・水尾坊木(みおぼうぎ)[2]などがある。古語は「ほんぎ」で、土砂が堆積する三角洲の河口付近に設置され、満潮時には行き交う舟の運行指標となった。
澪標は古くより「水の都(水都)」と謳われていた大阪(難波宮、難波・浪速・大坂)との関連性が強く、その意匠は明治24年(1891年)に大阪市の市章等として採用されている。
かつて関東でも上方の難波に倣い、小間物町の野地豊前が洲崎に水路標を設置し、満潮時の可航水路を漁師に示した。江戸時代初期の三浦浄心『見聞集』によれば、天正19年(1591年)に設置されたこの澪標は、隅田河口を運行する漁師に喜ばれたことから、野地の名をとり「野地ほんぎ」と通称されたという。
また、和歌では「身を尽くし」との掛詞で用いられる事もあり、平安時代に詠まれた元良親王の「わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ(小倉百人一首20番)」などが代表的である。