五 日本人の「無常」観
36 日本人の無常観
「無常」は、中国古典と仏教経典の中にある言葉で、それは、①万物は流転して、常住なるものはないとする「諸行無常」の思想、②万物の流転することを認識し判断する主体そのものが無常であるとする「五蘊無常」、③無常も有常もなく、有無の対立とか差別とかを超越した涅槃に到達したときに、はじめて真の無常観=空観が成立する思想、この三つのうち、日本文学に関わりを持ち続け、また広く日本の民衆の精神生活に浸透していたものは、①の万物流転の無常感である。つまり、世間すべての物が生滅、変化して常住でないとする仏教的な意味で使われている一方、また人生のはかないという日常的な意味でも使われている。日本人の思考方法には、人間関係重視の傾向や情趣に流れる傾向があるので、仏教の無常観も、世界観として確立することができず、むしろ詠嘆的=抒情的な哀感の表現の仕方に過ぎなかった。この点で「無常カン」は本来の仏教哲学の主張する「無常観」というよりは、「無常感」と呼ぶのがふさわしい。
36 日本人の無常観
「無常」は、中国古典と仏教経典の中にある言葉で、それは、①万物は流転して、常住なるものはないとする「諸行無常」の思想、②万物の流転することを認識し判断する主体そのものが無常であるとする「五蘊無常」、③無常も有常もなく、有無の対立とか差別とかを超越した涅槃に到達したときに、はじめて真の無常観=空観が成立する思想、この三つのうち、日本文学に関わりを持ち続け、また広く日本の民衆の精神生活に浸透していたものは、①の万物流転の無常感である。つまり、世間すべての物が生滅、変化して常住でないとする仏教的な意味で使われている一方、また人生のはかないという日常的な意味でも使われている。日本人の思考方法には、人間関係重視の傾向や情趣に流れる傾向があるので、仏教の無常観も、世界観として確立することができず、むしろ詠嘆的=抒情的な哀感の表現の仕方に過ぎなかった。この点で「無常カン」は本来の仏教哲学の主張する「無常観」というよりは、「無常感」と呼ぶのがふさわしい。