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「義」とは「裁制断割(さいせいだんかつ)」の四つであり、四魂に配すると次のようになる。
荒魂…勇…断(だん)…果毅敢為(かきかんい)
和魂…親…制(せい)…政令法度(せいれいほうど)/正理公同(せいりこうどう)
幸魂…愛…割(かつ)…忘身殉難(ぼうしんじゅんなん)
奇魂…智…裁(さい)…弥縫補綴(びぼうほてつ)
四つを列記する時の順序は必ず「裁制断割」であり、「断制割裁」とは呼ばれない。
裁は「弥縫補綴(びぼうほてつ)」の意を兼ね、制は「政令法度(せいれいほうど)」の意を兼ね、断は「果毅敢為(かきかんい)」の意を兼ね、割は「忘身殉難(ぼうしんじゅんなん)」の意を兼ねる。また、政令法度は「正理公同(せいりこうどう)」でもある。
過ちを悔い改めるのは「義」である。[8]


IP属地:辽宁来自Android客户端174楼2022-05-21 19:56
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    正欲
    正欲は「名位寿富(めいいじゅふう)」の四つあり、義を併立する。
    名は美を欲し、位は高を欲し、寿は長を欲し、富は大を欲す[9]。
      義…四魂…正欲
    断…荒魂…位、高
    制…和魂…富、大
    割…幸魂…寿、長
    裁…奇魂…名、美
    吾人の身に最も貴きものは、名と位と寿と富とであるが、これを与奪する大権利を有するものは、大霊魂である。故にこの四欲なるものは神賦の正欲である。
     しかるに俗学者輩、みなこの真理を悟らず、自暴自棄し、まさに貴きを外に求めんとして居るが、何ぞそれ、身に貴きものは、この四欲の外に求めて得べけんやである。
     名を後世にまで輝かすは、人生の目的の第一の要素である。しかしてその名は、必ず美を欲すべきである。位地を保つは、人生万業の上において最も必要なる要素である。しかしてその位置は、高きを欲すべきである。寿は人生の柱石であって、万業を為すに最も必要なる基本である。しかして寿は、最も長きを欲すべきである。富は人格を保つ上において第一の要具である。万業の資本である。しかして富は最も大を欲すべきである。
     四欲を与奪するものは大霊魂であるが、大霊魂を発揮するものは、また四欲を全く正しきに行うにあるものである。
    出典:『本教創世記』「第八章#」
    第10巻第29章「言霊解三」#では「正欲」という言葉は使われていない。単に「欲」と呼んでいる。
    四つの正欲を列記する時の順序は必ず「名位寿富」である。ただし「富」が「福」や「宝」に置き換えられたり、「寿」が「命」に置き換えられる場合もある。
    【用例】
    「モウ斯うして神界へ来た以上は、名位寿福の必要もなければ互に争ふ余地もない」[10]
    「人間の欲望は名位寿宝と云ふて最も貴いものは名を万世に残すことだ。その次は位といつて人格の向上を主とする欲望だ。」[11]
    「名も位も命も富も皇神は人の所業によりてたまはむ」[12]


    IP属地:辽宁来自Android客户端175楼2022-05-21 19:57
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      2025-07-20 18:48:22
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      天体の一霊四魂
      人間だけではなく、天体も一霊四魂を具有している。
      太陽の直霊を「大直日神(おおなおひのかみ)」と呼び、その四魂にそれぞれ備わる直霊を「神直日神(かむなおひのかみ)」と呼ぶ。太陽の一霊四魂を「厳の身魂」と総称し、また「霊主体従の身魂」とも呼ぶ。
      地球の直霊を「大曲津日神(おおまがつひのかみ)」と呼び、その四魂にそれぞれ備わる直霊を「八十曲津日神(やそまがつひのかみ)」と呼ぶ。この曲津日神とは曲津神ではなく一種の直日神である。地球の一霊四魂を「瑞の身魂」と総称し、また「体主霊従の身魂」とも呼ぶ。
      それぞれの四魂はまたさらに分かれ、際限なく一霊四魂が分布される。
      太陽の「霊主体従」とは霊六体四(霊が超過)の意味ではなく、地球の「体主霊従」とは体六霊四(体が超過)の意味ではない。霊五体五、体五霊五の意味であり、超過すると悪となる。またこれは組織上の説明であり、行動上の説明ではない。行動上の体五霊五は悪となる。
      月の霊魂は「伊都能売の身魂」や「五六七の身魂」と呼ぶ。厳にも瑞にも偏せず、厳と瑞を相調和した完全無欠な身魂である。伊都能売の身魂は時として瑞の身魂と同一視され、同じだと誤解されることがある。
      〔以上、第6巻第26章「体五霊五」#より〕


      IP属地:辽宁来自Android客户端176楼2022-05-21 19:58
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        思想の源流
        王仁三郎の一霊四魂に関する思想は、本田親徳・著『真道問答#』に記された思想とほぼ同じであり、それをもう少し体系化したものだと言える。
        「荒魂」等の用語は神道界に昔から伝わる言葉を流用している場合が多いが、理論・概念は本田親徳・王仁三郎独自のものである。当時の神道界における認識は、たとえば『神道大辞典』(全三巻、平凡社、昭和12~15年発行)に記された「和魂」「荒魂」「幸魂」の解説は次のようなものであり、体系化されているわけではない。
        「ニギミタマ 和魂  (略)神霊の作用を二大別して和魂及び荒魂となす。和魂とはこれが平和・仁慈の徳を、荒魂とは勇猛・進取の作用をいへるもの。前者は静止的若しくは調節的で、常の状態にあるを指し、後者は常の状態より脱出したる活動的もしくは荒びすさむ状態を意味する。我等人間日常の行動にも平静と活動との二方面がある。而して古代人はその作用を起さしむる各別の原動力が対立的に存するものと信じた。平素事のない場合には一神格中に統一されて別箇の行動を見せないが、時と場合とに応じて分離し、単独に一箇の神格者として働くものとせられた。例へば神功皇后三韓征伐の時に、神々の荒魂は皇軍の先鋒となって王師を導き、和魂は皇后の御身に服(したが)うて皇船の鎮となった。かく両者を別箇に考へた結果、これを祭祀するに当つても和魂のみを祀るあり、荒魂のみに留るり、和魂に荒魂をつけて祀つたこともある。荒魂のみを祀つた例は、奈良時代の末、天平宝字八年一言主神(ひとことぬしのかみ)を土佐から迎へて大和に祀つたのは荒魂である。そして土佐には都佐坐(とさにます)神として和魂が祭られてある。住吉神にしても長門にあるのは荒魂神で、摂津のは和魂神である。和魂に荒魂をつけて祀った例は、大己貴神の和魂を大物主命の御名のもとに大神神社に祀り、その荒魂を附近の狭井神社として祀った。尚この種に属するものに幸魂・奇魂等がある。」〔『神道大辞典』p74〕
        「アラミタマ 荒魂・荒御魂  和魂の対称。(略)荒魂は外面に現はれた荒荒しい、戦闘的な、積極的な方面の作用をいふ。(略)」〔『神道大辞典』p68〕
        「サキミタマ 幸魂  その身を守りて幸くあらしむる神魂の義。荒魂の対称たる和魂の徳用として現はれたるもので、奇魂と共に二名一魂なりといふ。(略)」〔『神道大辞典』p101〕
        (「奇魂」は「御魂」と同じ)


        IP属地:辽宁来自Android客户端177楼2022-05-21 19:58
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          その他
          「感謝祈願詞」では天の数歌の「一」に「一霊四魂」の字を当てて「ひと」と読ませている。「一霊四魂(ひと)、八力(ふた)、三元(み)、世(よ)、出(いつ)、燃(むゆ)、地成(なな)、弥(や)、凝(ここの)、足(たり)、諸(もも)、血(ち)、夜出(よろづ)の大元霊(もとつみたま)」[13]
          信真は四魂の本体となり、愛善は四魂の用となっている。[14]
          出口王仁三郎の曾孫の出口光が、一霊四魂に着想を得た実践的な心理学として「個性認識学」(四魂の窓)を提唱している。[15]
          関連文献
          一霊四魂を解説した文献には次のものがある。
          霊界物語第10巻第29章「言霊解三」#
          霊界物語第6巻第26章「体五霊五」#
          本田親徳・著「真道問答#」(『神霊界』大正8年(1919年)9月1日号(道の大原号)p7~17に収録)
          『道之大本#』第2章、第12章、第15章
          『大本の道(愛善の道)』「第四章 一霊四魂と五情#」、「第五章 義と正欲#
          霊界物語第13巻総説#
          霊界物語第47巻第9章「愛と信」#
          『霊の礎』(霊界物語第17巻巻末「霊の礎(三)」#)
          脚注
          ↑第57巻第1章「大山」#:「智愛勇親の四魂を活用させ」
          ↑『道之大本』「第二章#」:「勇智愛親この四魂の魂は、天帝の全き霊魂である」
          ↑第10巻第29章「言霊解三」#
          ↑『道之大本』「第一四章#」:「六、恥づるの中にも省るあり、悔ゆるの中にも省るあり、畏るの中にも省るあり、覚るの中にも省るあり」
          ↑月鏡「人間と動物」#:「動物には五情の中、覚る、畏るの二情しかはたらかぬ。省る、恥る、悔ゆるの三情は全然働かぬのである。だから破廉耻な事を平気で行ふのである。人の心を覚つて用を便じたり、叱られると恐いといふ事は知つて逃げたりするが其外の情は働かぬ。人にして若し破廉耻心が無いならば動物と選ぶ所が無いではないか」
          ↑第10巻第29章「言霊解三」#:「人は天帝の御子なり、神子たるもの、真の父たり母たる上帝より賦与せられたる至明至聖なる戒律を度外視し、人の智慮に依つて作為したる不完全なる戒律を楯と頼み、以て心を清め徳を行ひ、向上し発展し、立命せむとするは愚の骨頂にして、恰も木に縁つて魚を求めむとするが如し」
          ↑第10巻第29章「言霊解三」#:「省る。この戒律を失ひたる時は、直霊 直に曲霊に変ず」、以下略
          ↑第10巻第29章「言霊解三」#:「過を悔い改むるは義なり」
          ↑第10巻第29章「言霊解三」#
          ↑第40巻第12章「心の反映」#(カルのセリフ)
          第71巻第10章「荒添」#(玄真坊のセリフ)
          ↑『出口王仁三郎全集 第七巻』所収の道歌#
          ↑第60巻第16章「祈言」#
          ↑第47巻第9章「愛と信」#:「信の真は四魂の本体となり愛の善は四魂の用となつて居る。さうして直霊は瑞の御霊の大神の御神格の御内流即ち直流入された神力である」
          ↑個性認識学


          IP属地:辽宁来自Android客户端178楼2022-05-21 20:00
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            奇魂(くしみたま)と幸魂(さきみたま)
            この2つは、古事記に出てきます。ちょうど、大国主命が国造りの途中で、海辺で悩んでいました。キラキラと光る海から突然神様が現れます。大国主命が大物主に「あなたはどなたで御座いますでしょうか?」と尋ねると、大物主は
            我は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)なり
            と答えた。と古事記には記載されています。少なくとも、古事記が完成した712年には、この奇魂と幸魂という考え方があったことがうかがえます。古事記には、荒魂と和魂は出てきてないですが、770年に完成した日本書紀には、出雲の大己貴命(おおなむちのみこと←大国主命と同じとされる)が自らの和魂を三輪山に鎮めたと記されています。
            その事から、一霊四魂の元の考え方は、かなり古い時代から存在していたと考えられます。
            一霊四魂が本格的に解明されてきたのは江戸時代末期
            幕末から明治にかけて活動していた、本田親徳という方がいます。この方は、神道家でもありますが、鎮魂帰神を中心とした本田霊学を確立させます。この時に、一霊四魂を解明し、色々な人に継承されていくことになります。大本教で有名な出口王仁三郎氏もこの流れから大きな影響を与えたと言われています。


            IP属地:辽宁来自Android客户端179楼2022-05-21 20:12
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              今昔物語集(読み)こんじゃくものがたりしゅう
              日本大百科全書(ニッポニカ)「今昔物語集」の解説
              今昔物語集
              こんじゃくものがたりしゅう
              平安後期の説話集。1059話(うち本文を欠くもの19話)を31巻(うち巻8、18、21は欠)に編成する。
              [森 正人]
              成立目次を見る
              1120年(保安1)以降まもなく、白河(しらかわ)院政のころ成るか。編者未詳。中心的編者のもとで複数の人の協同作業であったか、1人の手に成ったかについても、説は分かれている。ただ、構成、素材、文体などを総合的に判断して、仏教界に属する者の編であろう。すべての説話に文献資料があったとみられる。中国の仏教説話集『三宝(さんぼう)感応要略録』『冥報記(めいほうき)』『弘賛法華伝(ぐざんほっけでん)』および船橋家本系『孝子伝』、日本の『日本霊異記(りょういき)』『三宝絵詞(さんぼうえことば)』『日本往生極楽記』『本朝法華験記(ほっけげんき)』『俊頼髄脳(としよりずいのう)』が主要な確実な資料である。また、現在伝わらない源隆国(たかくに)作の『宇治大納言(うじだいなごん)物語』や、いくつかの仏教説話集も有力な資料となったと考えられる。こうして、本書は、それまでの説話集のさまざまの系統を集大成するものとなっている。
              [森 正人]
              内容・特徴目次を見る
              巻1~5を天竺(てんじく)(インド)、巻6~10を震旦(しんたん)(中国)、巻11~31を本朝(日本)のごとく3部に分け、各部をそれぞれ仏法、世俗の2篇(へん)に分ける。各部、篇は、主題、素材によって説話を分類配列し、全体が緻密(ちみつ)に構成されている。各説話は、「今ハ昔」の冒頭句、「トナム語リ伝ヘタルトヤ」の末尾句をもって、形式的統一が図られている。また、各部冒頭から、創始を語る説話が年代順に配列されているから、3国の仏法と王法の歴史を示す基本構想のあったことが認められる。こうして本書は、当時考えられる全世界を説話によって描き出し、すべての事柄とできごとに統一と秩序を与えようとする試みであった。その構想は、古代末期の価値観の動揺、社会的行き詰まりが、意識的にも無意識的にも影響して生まれたと考えられる。説話の舞台は中央から辺境に及び、登場人物も国王や貴族から下層の老若男女、妖怪(ようかい)、動物と多様である。編者はおおむね旧(ふる)い価値観にたちながらも、従来の文学が目を向けることのなかった新しい世界を取り上げ、とくに、山林修行民間布教の聖(ひじり)、武士、盗賊などの精神と行動を具体的に描き出している。したがって、その文学精神は古代的であると同時に、中世文学の出発を予感させる作品ともなっている。また、即物的な漢字片仮名交じり文体は、叙情や人間の微妙な内面を表現するには適していなかったけれども、非伝統的、非貴族的な対象に対しては十分効果を発揮している。『平家物語』などの和漢混交文の先駆とみなされる。
              [森 正人]
              影響目次を見る
              伝本のほとんどが江戸時代の書写で、それらはすべて、鎌倉時代中期を下らない鈴鹿(すずか)本を祖本とするから、中世にはほとんど流布しなかったらしい。中世文学に直接的な影響を与えた形跡もない。江戸時代に本朝部世俗篇の一部が刊行されている。近代に入って、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)がその説話を素材に『羅生門(らしょうもん)』『芋粥(いもがゆ)』などの小説を書き、そのころからようやく文学的価値が注目されるようになった。
              [森 正人]
              『山田孝雄他校注『日本古典文学大系22~26 今昔物語集1~5』(1959~63・岩波書店)』▽『馬淵和夫他校注・訳『日本古典文学全集21~24 今昔物語集1~4』(1971~76・小学館)』▽『『日本文学研究資料叢書 今昔物語集』(1970・有精堂出版)』▽『坂口勉著『今昔物語の世界』(教育社歴史新書)』▽『池上洵一著『今昔物語集の世界 中世のあけぼの』(1983・筑摩書房)』
              百科事典マイペディア「今昔物語集」の解説
              今昔物語集【こんじゃくものがたりしゅう】
              平安末期の説話集。31巻,内3巻を欠く。作者,成立事情に定説はないが,宇治大納言源隆国に関係があるとする説もある。天竺(てんじく),震旦(しんたん),本朝の3部に大別して千余編を収める。仏教史,霊験譚,因果応報譚が多いが,また俗世界の話柄も豊富。俗語をまじえた自由な和漢混淆(こんこう)文で書かれ,取材範囲も広く,登場人物も貴族,僧,武士,農民,医師,遊女,盗賊,乞食から,鳥獣,妖怪変化にまで及んでいる。原拠となったのは,《釈迦譜》などの中国の資料,日本の《日本霊異記》《三宝絵詞》《本朝法華験記》など。短編小説としてもすぐれた特質を備えており,芥川龍之介をはじめ近代の作家が多くこの集に取材し


              IP属地:辽宁来自Android客户端180楼2022-06-04 15:33
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                今昔物語集
                こんじゃくものがたりしゅう
                平安時代後期の日本最大の説話集。作者未詳。 31巻。 1040話。天永~保安 (1110~24) 頃成立か。天竺 (インド) ,震旦 (中国) ,本朝仏法,本朝世俗の4部に分けられ,説話の内容によって整然と分類配列される。天竺,震旦部では,仏典や漢籍の翻訳翻案がほとんどで,本朝仏法部では『日本霊異記』以下の仏教説話集により,文章を改め,あるいは潤色を加えている。本朝世俗部は出典が明らかでない説話が多い。各話「今ハ昔」で始る。きわめて行動的な人間を,漢文脈の,強い文体で活写している点,和文により人間の内面を描いた『源氏物語』と対照的であるが,ともに平安時代を代表する作品となっている。近代文学に与えた影響も大きい。
                こんじゃくものがたりしゅう‥ものがたりシフ【今昔物語集】
                平安後期の説話集。三一巻。うち、八、一八、二一の三巻を欠く。保安元年(一一二〇)頃成立か。作者に関しては、古来の源隆国説、鳥羽僧正覚猷説その他があるが未詳。通称「今昔物語」。内外の文献の翻案を含む説話一〇〇〇余を、天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の三部に分けて収めた、日本最大の古説話集。全体に仏教的な説話が多いが、本朝世俗部などには地方武人や庶民階級の生活を伝える説話も集めてあり、力強い現実描写にすぐれる。漢文訓読調に和文脈をまじえた文体で、古写本は片かな宣命(せんみょう)体の表記法をとり、国語史料としても貴重である。書名は、説話が「今は昔」で始まることに由来。今昔。
                こんじゃくものがたりしゅう〔コンジヤクものがたりシフ〕【今昔物語集】
                平安後期の説話集。31巻。現存28巻。源隆国や覚猷(鳥羽僧正)を編者とする説があるが、未詳。12世紀初めの成立。天竺てんじく(インド)・震旦しんたん(中国)・本朝(日本)の3部に分かれ、一千余の説話を収める、日本最大の古説話集。古写本は片仮名宣命体。書名は、各話が「今は昔」で始まることに由来する。今昔物語。
                今昔物語集
                こんじゃくものがたりしゅう
                平安後期の説話集
                12世紀初めころの成立。編者不詳。天竺 (てんじく) (インド)・震旦 (しんたん) (中国)・本朝(日本)の3部31巻よりなる。仏教説話が多いが,本朝部の後半,世俗編においては,貴族・武士・庶民の姿を躍動的なユーモアを通して描写。和語・漢語・梵語の和漢混交文で書かれ,のちの説話文学に多大な影響を与えた。
                こんじゃくものがたりしゅう【今昔物語集】
                平安時代末期の説話集。編者未詳。12世紀初頭に成立。31巻。ただし,巻八,巻十八,巻二十一を欠く。天竺(てんじく)(インド)(巻一~巻五),震旦(中国)(巻六~巻十),本朝(日本)(巻十一~巻三十一),の3部より成る。標題のみを残す19話,標題と本文の一部を残す説話を含めて,1059話を収録。
                [編者と成立]
                 《宇治拾遺物語》の序に,宇治大納言源隆国(みなもとのたかくに)が納涼のために宇治平等院の南泉房(なんせんぼう)に籠り,往来の諸人の昔物語を記録したものが《宇治大納言物語》であり,増補されて世に行われている,とある。
                【愛】より
                …《枕草子》と並んで,《源氏物語》にも,〈愛〉〈愛す〉の語は1例も使用されていない。 このように平安女流文学においては,〈愛〉〈愛す〉が使用されていないのに対して,平安末期の仏教説話集《今昔物語集》では,これらの語が頻用されている。しかし,この現象は,必ずしも時代の新古のみによるものとは考えられない。…
                【因果応報】より
                …日本ではこの2書に《善悪因果経》を加えた3書の影響のもとに多くの因果応報説話が形成された。仏教説話集はすべて因果応報説話集といえるが,中でも《今昔物語集》巻九,巻二十は,それぞれ中国・日本の因果応報説話の集成として注目すべきものである。また,近世に多く行われた〈鼓吹(くすい)〉〈直談(じきだん)〉などを書名にもつ通俗仏教注釈書は,中世以前の因果応報説話を多く継承している。…
                【地蔵菩薩霊験記】より
                …内容は,地蔵を安置する寺院の縁起,地蔵信仰によって得た利益(りやく)など,基本的には阿弥陀や観音の霊験譚と異なるものではないが,地獄から蘇生した話が多く見られるのが地蔵の霊験譚の特徴である。《今昔物語集》巻十七に32の地蔵霊験譚が収録され,そのほとんどは《地蔵菩薩霊験記》の類話なので,本書の成立は平安時代にさかのぼりうる。しかし実睿撰と伝えられる巻二に〈文和年中〉(1352‐56)や〈曾我兄弟〉(仇討は1193年)という言葉が出てくるから,現存の《地蔵菩薩霊験記》は実睿の著そのものではなく,地蔵信仰の普及とともに後人が増補改訂したものと思われる。…


                IP属地:辽宁来自Android客户端182楼2022-06-04 15:40
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                  2025-07-20 18:42:22
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                  【釈迦】より
                  …口頭の語りだけでなく,道長の法成寺御堂の扉絵に八相成道が描かれたり,貞観寺の仏伝の柱絵にもとづく絵解きや《梁塵秘抄》にみる歌謡(今様)世界で仏伝が歌われるなど,さまざまな領域で仏伝の物語は享受されていた。 11世紀後半になって,釈迦滅後二千年に〈末法〉の暗黒の世に入るという終末観の思想が広まったが,12世紀前半の《今昔物語集》が初めて体系的な仏伝文学を形成したのもこの末法の考えと深いかかわりがあろう。《三宝絵》が前世の仏を問題にしたのに対し,《今昔》は人間としての釈迦の生を徹底して見すえようとする。…
                  【ジャータカ】より
                  …これらの民話を集成した《パンチャタントラ》は,のちにシリア語やアラビア語に訳されて西方に伝播し,《イソップ物語》や《アラビアン・ナイト》,さらには《グリム童話》,J.deラ・フォンテーヌの《寓話》などに影響を与えた。また,日本へも前述の漢訳文献を通じて《今昔物語集》などに入っている。たとえば,〈二羽の紅鶴と亀〉の話は,〈亀と鷲〉(イソップ),〈二羽の家鴨と亀〉(ラ・フォンテーヌ),〈雁と亀〉(《今昔物語集》)となり,一角仙人の話は《今昔物語集》を通じて謡曲《一角仙人》や歌舞伎《鳴神》となっている。…
                  【琵琶法師】より
                  …7世紀末ころに中国より伝来した琵琶は,管絃の合奏に用いられる一方,盲僧と結んで経文や語り物の伴奏楽器とされた。《今昔物語集》には琵琶にすぐれた宇多天皇の皇子敦実親王の雑色(ぞうしき)蟬丸(せみまる)が,盲目となって逢坂山に住んだが,そのもとに源博雅(みなもとのひろまさ)が3年間通って秘曲を伝授される話を載せる。蟬丸は琵琶法師の祖とされ,醍醐帝第4の皇子という伝承を生むが,一方彼らの自治組織ともいうべき〈当道(とうどう)〉では,仁明天皇第四皇子人康(さねやす)親王を祖神とし,天夜(あまよ)尊としてまつる。…
                  【源隆国】より
                  …《宇治拾遺物語》序に《宇治大納言物語》(原本不詳)の作者と伝える。《今昔物語集》の撰者ともいわれるが不明。【黒板 伸夫】。…
                  【羅生門】より
                  …平安末期の荒れ果てた羅生門の楼上,職を失った下人は死人の髪を抜きとっている老婆を取り押さえるが,生きるためにはこうするほかはないという老婆の言葉を聞くや,その着物を剝ぎとって闇の中へ消えてゆく。材を《今昔物語集》に取り,下人の心理の推移をみごとに描きとってみせたこの作品の主題をエゴイズムの剔抉に見るか,老婆の語る倫理を超えたニヒリズムに見るか,あるいは下人の示す善への勇気と悪への勇気をともに持った人間存在の矛盾そのものの凝視に見るか,その主題は幾様にも読みとれるが,いずれにせよ人間をつねに複眼的にとらえ,人生の一局面をあざやかに切断して作品化せんとする短編作家芥川のまぎれもない誕生をここに読みとることができよう。【佐藤 泰正】。…


                  IP属地:辽宁来自Android客户端183楼2022-06-04 15:41
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                    蜀中西南高山之上,有物,与猴相类,长七尺,能作人行,善走逐人,名曰“猳国,”一名“马化,”或曰“玃猿。”伺道行妇女有美者,辄盗取,将去,人不得知。若有行人经过其旁,皆以长绳相引,犹故不免。此物能别男女气臭,故取女,男不取也。若取得人女,则为家室。其无子者,终身不得还。十年之后,形皆类之。意亦迷惑,不复思归。若有子者,辄抱送还其家,产子,皆如人形。有不养者,其母辄死;故惧怕之,无敢不养。及长,与人不异。皆以杨为姓。故今蜀中西南多诸杨,率皆是“国”“马化”之子孙也。
                    ——《搜神记》


                    IP属地:辽宁来自Android客户端184楼2022-06-05 07:23
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                      《山海经》·南山经
                      南山经之首曰鹊山。其首曰招摇之山,临于西海之上,多桂,多金玉。有草焉,其状如韭而青华,其名曰祝余,食之不饥。有木焉,其状如谷而黑理,其华四照,其名曰迷谷,佩之不迷。有兽焉,其状如禺而白耳,伏行人走,其名曰狌狌,食之善走。丽鏖之水出焉,而西流注于海,其中多育沛,佩之无瘕疾。
                      又东三百里,曰堂庭之山,多棪木,多白猿,多水玉,多黄金。


                      IP属地:辽宁来自Android客户端185楼2022-06-05 07:39
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                        补江总白猿传
                          佚名
                          梁大同未,遣平南将军蔺钦南征,至桂林,破李师古、陈彻。别将欧阳纥!”略地至长乐,悉平诸洞,罙入深阻。屹妻纤白,甚美。其部人曰:“将军何为挈丽入经此?地有神,善窃少女,而美者尤所难免,宜谨护之。”屹甚疑惧,夜勒兵环甚庐,匿妇密室中,谨闭甚固,而以女奴十余伺守之。
                          尔夕,阴风晦黑,至五更,寂然无闻。守者怠而假寐,忽若有物惊悟者,即己失妻矣。关扃如故,莫知所出。出门山险,咫尺迷闷,不可寻逐。迨明,绝无其迹。绝大愤痛,誓不徒还。因辞疾,驻其军,日往四遐,即深凌险以索之。
                          既逾月,忽于百里之外丛筱上,得其妻绣履一双。虽浸雨濡,犹可辨识。纥尤凄悼,求之益坚。选壮士三十人,持兵负粮,岩栖野食。又旬余,远所舍约二百里,南望一山,葱秀迥出,至其下,有深溪环之,乃编木以度。
                          绝岩翠竹之间,时见红彩,闻笑语音。们萝引縆,而涉其上,则嘉树列植,间以名花,其下绿芜,丰软如毯。清遇岑寂,杳然殊境。东向石门,有妇人数十,帔服鲜泽,嬉游歌笑,出入其中。见人皆慢视迟立。至则问曰:“何因来此?”纥具以对。相视叹曰:“贤妻至此月余矣。今病在床,宜遣视之。”
                          入其门,以木为扉。中宽辟若堂者三。四壁设床,悉施锦荐。其妻卧石榻上,重茵累席,珍食盈前。纥就视之。四眸一眸,即疾挥手令去。诸妇人曰:“我等与公之妻,比来久者十年。此神物所居,力能杀人,虽百夫操兵,不能制也。幸其未返,宜速避之。但求美酒两斛,食犬十头,麻数十斤,当相与谋杀之。其来必以正午。后慎勿太早,以十日为期。”因促之去。纪亦遽退。
                          遂求醇醪与麻犬,如期而往。妇人曰:“彼好酒,往往致醉。醉必骋力,俾吾等以彩练缚手足于床,一踊皆断。尝纫三幅,则力尽不解,今麻隐帛中柬之,度不能矣。遍体皆如铁,唯脐下数寸,常护蔽之,此必不能御兵刃。”指其傍一岩曰:“此其食廪,当隐于是,静而伺之。酒置花下,犬散林中,待吾计成,招之即出。”如其言,屏气以俟。日晡,有物如匹练白他山下,透至若飞,径入洞中,少选,有美髯丈夫长六尺余,白衣曳杖,拥诸妇人而出。见犬惊视,腾身执之,披裂吮咀,食之致饱。妇人竞以玉杯进酒,谐笑甚欢。
                          既饮数斗,则扶之而去,又闻嘻笑之音。良久,妇人出招之,乃持兵而入,见大白猿,缚四足于床头,顾人蹙缩,求脱不得,目光如电。竞兵之,如中铁石。刺其脐下,即饮刃,血射如注。乃大叹咤曰:“此天杀我,岂尔之能?然尔妇已孕,勿杀其子。将逢圣帝,必大其宗。”言绝乃死。
                          搜其藏,宝器丰积,珍羞盈品,罗列案几。凡人世所珍,靡不充备。名香数斛,宝剑一双。妇人三十辈皆绝其色,久者至十年。云:“色衰必被提去,莫知所置。又捕采唯止其身,更无党类。旦盥洗,著帽,加白抬,被素罗衣,不知寒暑。遍身白毛,长数寸。所居常读木简,字若符篆,了不可识。已,则置石蹬下。晴昼或舞双剑,环身电飞,光圆若月。其饮食无常,喜啖果栗。尤嗜犬,咀而饮其血。日始逾午即帔然而逝,半昼往返数千里,及晚必归,此其常也。所须无不立得。夜就诸床嬲戏,一夕皆周,未尝寐。”言语淹详,华旨会利。然其状即猳玃类也。今岁木叶之初,忽怆然曰:“吾为山神所诉,将得死罪。亦求护之于众灵,庶几可免。”前月哉生魄,石瞪生火,焚其简书,怅然自失曰:“吾已千岁而无子。今有子,死期至矣。”因顾诸女泡澜者久,且曰:“此山复绝,未尝有人至。上高而望不见樵者。下多虎狼怪兽。今能至者,非天假之。何那?”纥即取宝玉珍丽及妇人以归,犹有知其家者。纥妻周岁生一子,厥状肖焉!”。后纥为陈武帝所诛,素与江总善,爱其子聪悟绝人,常留养之,故免于难。及长果文学善书,知名于时。


                        IP属地:辽宁来自Android客户端186楼2022-06-05 07:49
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                          山海经广注卷一
                          仁和吴任臣注
                          南山经
                          南山经之首曰防山【任臣案今本作鹊三才图会有鹊山之神即此山也又济南汝宁太原顺徳皆有鹊山搜神记仲子于鹊山盖济南鹊山通鉴李世民与窦建徳战西薄汜水南属鹊山汝宁鹊山也非此】其首曰招揺之山【任臣案王崇庆释义云既曰鹊山又曰其首曰招揺之山是一山而二名或两山相并也任昉述异记曰招揺山亦名鹊山】临于西海之上【郭曰在蜀伏山山南之西头濵西海也】多桂【郭曰桂叶似枇杷长二尺余广数寸味辛白花丛生山峰冬夏常青间无杂木吕氏春秋曰招摇之桂任臣案王会解自深桂注自深南蛮也楚辞嘉南州之炎徳兮丽桂树之冬荣山海经图赞曰桂生南裔拔萃岑岭广莫熙葩淩霜津颍气王百药森然云挺】多金玉有草焉其状如韭【郭曰璨曰韭音九尔雅云霍山亦多之】而青华其名曰祝余【郭曰或作桂荼】食之不饥【任臣案骈雅曰祝余疗饥草也徐氏蹇修赋云采石蕈以夕春兮羞祝余以鼂餔图赞云祝荼嘉草食之不饥即此】有木焉其状如谷而黑理【郭曰谷楮也皮作纸璨曰谷亦名构名谷者以其食如谷也】其华四照【郭曰言有光焰也若木华赤其光照地亦此也见离骚经任臣案梁简文帝相宫寺碑四照吐芬五衢异色梁元帝集苣乱九衢花含四照又启云昔住阳台虽逢四照李百药赋翫四照于花丛庾子山启花开四照惟见其荣又诗五衢开辨路四照起文烽王巾头陀寺碑九衢之草千计四照之花万品晋书四照开春华万宝成秋实顾野王诗争攀四照花竞戏三条术王勃乾元殿颂四照霏红间灵葩于右墄王氏华平颂五衢四照未数山经韵府羣玉云即若草木其光四照本此】其名曰迷谷【任臣案吴淑木赋迷谷四照之异文玉五色之竒骈雅曰迷谷四照杨榣七脊述异记云迷谷出招揺山事物绀珠云迷谷如楮而黑理王世贞骚曰佩迷谷之琅兮修途向乎丛林吴国伦书云疑网暂撤迷谷在躬图赞曰爰有嘉树产自招揺厥华流光上映垂霄佩之不惑潜有灵标】佩之不迷有兽焉其状如禺而白耳【郭曰禺似猕猴而大赤目长尾今江南山中多有説者不了此物名禺作牛字图亦作牛形或作猴皆失之也禺字音遇】伏行人走其名曰狌狌食之善走【郭曰生生禺兽状如猿伏行交足亦此也见京房易任臣案淮南万毕术曰妇终知来狌狌知往王防解州靡以费费都郭生生即狌狌也太微经曰狌染齿于酒忘其努取图赞曰狌狌似猴走立行伏櫰木挺力少辛明目蜚亷迅足岂食斯肉】丽之水出焉【郭曰音作几】而西流注于海其中多育沛【郭曰未详】佩之无瘕疾【郭曰瘕虫病也任臣案内经症瘕之疾】
                          又东三百里曰堂【郭曰一作常】庭之山多棪木【郭曰棪别名连其子似奈而赤可食音剡任臣案尔雅棪速其曹毗魏都赋果则谷棪山楟】多白猿【郭曰今猿似猕猴而大臂脚长便防色有黑有黄鸣其声哀任臣案图赞曰白猿肆巧由基抚弓应眄而号神有先中数如循环其妙无穷】多水玉【郭曰水玉今水精也相如上林赋曰水玉磊砢赤松子所服见列仙传任臣案庾肩吾启云竞爽云珠争竒水玉李贺诗暗佩清臣敲水玉又玻璃亦名水玉图赞曰水玉沭浴潜映洞渊赤松是服灵蜕乗烟吐纳六气升降九天】多黄金【任臣案説文五金黄为之长地镜图云黄金之气赤夜有光或云上有薤下有金又黄金有沙金麸金橄榄叶子胯子之名不可尽述见寳货辨疑又事物绀珠有珄金蔓苔杨迈麟趾阎浮檀之属皆黄金也】又东三百八十里曰猨翼之山【任臣案杨慎注曰山险难登猨亦须翼谚所谓猢孙愁也又淮南子云临蝯昡之岸亦此义】其中多怪兽水多怪鱼【郭曰凡言怪者皆谓貌状倔竒不常也尸子曰徐偃王好怪没深水而得怪鱼入深山而得怪兽者多列于庭】多白玉多蝮虫【郭曰蝮虫色如绶文鼻上有针大者百余斤一名反鼻虫古虺字任臣案楚辞蝮蛇蓁蓁是也蝮大而虺小】多怪蛇多怪木不可以上


                          IP属地:辽宁来自Android客户端187楼2022-06-05 10:14
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                            《山海经·海内经卷》
                            南方有赣巨人,人面长臂,黑身有毛,反踵,见人笑亦笑,脣蔽其面,因即逃也。


                            IP属地:辽宁来自Android客户端188楼2022-06-24 00:29
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                              2025-07-20 18:36:22
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                              《聊斋志异》
                              孙太白尝言:其曾祖肄业于南山柳沟寺。麦秋旋里,经旬始返。 启斋门,则案上尘生,窗间丝满。命仆粪除,至晚始觉清爽可坐。乃拂榻 陈卧具,扃扉就枕,月色已满窗矣。辗转移时,万籁俱寂。忽闻风声 隆隆,山门豁然作响。窃谓寺僧失扃。注念间,风声渐近居庐,俄而房门 辟矣。大疑之。思未定,声已入屋;又有靴声铿铿然,渐傍寝门。心始怖。 俄而寝门辟矣。急视之,一大鬼鞠躬塞入,突立榻前,殆与梁齐。面似老瓜 皮色;目光睒闪,绕室四顾;张巨口如盆,齿疏疏长三寸许;舌动喉 鸣,呵喇之声,响连四壁。公惧极;又念咫尺之地,势无所逃,不如因而刺 之。乃阴抽枕下佩刀,遽拔而斫之,中腹,作石缶声。鬼大怒,伸巨爪 攫公。公少缩。鬼攫得衾,捽之,忿忿而去,公随衾堕,伏地号呼。家人持 火奔集,则门闭如故,排窗入,见状,大骇。扶曳登床,始言其故。共 验之,则衾夹于寝门之隙。启扉检照,见有爪痕如箕,五指着处皆穿。既明, 不敢复留,负笈而归。后问僧人,无复他异。


                              IP属地:辽宁来自Android客户端189楼2022-06-24 00:33
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