美浓三人众稻叶一铁的维基百科
姉川の戦いの时、1,000の兵を率いて先阵を务めた。开戦前、织田信长は徳川家康に「我が手の者なら连れて行きなされ」と気前よく言ったが、家康はそれを拒绝。再度の信长の申し入れに、そこで家康は一鉄一人を指名している。これは织田家中でも评判になり皆が一鉄を羡んだ(『名将言行录』)。徳川势は朝仓势を圧したが、织田势は浅井势に圧されたので、一鉄が駆けつけ浅井势の右翼を崩し危急を救ったという。
姉川の戦いの后、信长は朝通(一鉄)を勲功第一として赏し、偏讳授与により长通と名乗るように命じたが、朝通は勲功第一は家康であると偏讳と共に拒否したという。なお、入道号である一鉄が用いられるようになった事が确认されるのは、この后の大徳寺御纳所宛ての书状からである。
大意是,秭川合战后信长认为稻叶一铁战功第一,而稻叶一铁拒绝了,认为战功第一应该是家康。
下面是百度百科稻叶一铁的逸事:
在织田军中,稻叶一铁又以“顽固者”闻名。姊川激战伊始,浅井军前锋对织田军猛烈攻击,织田军前锋一到四队都被击破。形势危急之际,稻叶一铁从后赶上对浅井军的右侧面发动急攻,解救了织田军前锋的危机。浅井军不敌织田军,败退。同时,德川军神原康政也迂回到朝仓军的右侧面发动急袭。在德川军的勇猛攻击下,朝仓军败退。战后,信长欲将织田方第1功名颁赏给稻叶一铁,没想一铁却说:“大殿(指信长)真是一个盲大将(意指信长好坏不识)。此番战胜完全都是三河殿(德川家康)的功劳,功名应该颁赏给三河殿的将士们。如果一铁受此功勋,那岂不是太可笑了。”其语气之严肃、强硬令信长和在场的其他将士都很吃惊。从此以后,那些自让功劳的人们就被称为“一铁者”。