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【伊贺·上野城】明智光政入道海天居城,兼伊贺评定间

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上野城是日本三重县伊贺市上野丸之内的古城。又称之白凤城、伊贺上野城。
此处为明智海天居所,私人会访请来此处。
另外伊贺藩务所无必要另开新帖,我也会在这裏公布。


IP属地:河北1楼2014-07-12 21:28回复
    伊贺上野城坐落于上野盆地的中央,上野台地北部的山坡上,海拔180米。 起初,北畠信雄的家臣泷川雄利在平乐寺的遗迹上建立起营寨;后来在1585年(天正13年)由筒井定次改建并修筑;1611年(庆长16年)藤堂高虎应德川家康之命扩建;大坂之阵时,与当时高虎所属的德川家将丰臣家消灭,筑城也因此而终止;除了本丸和二之丸主要部分以外的城的其它部分一直以未完成的状态度过了江户时代。
    现在,古城池一带被认定为国家级历史遗迹。包括古城池在内的近郊一带整合为上野公园,除了有祭祀松尾芭蕉的俳圣殿和芭蕉翁纪念馆以外,还有伊贺流忍者博物馆,并被作为伊贺上野的旅游景点而举办各种活动。长年被认作是日本第一高的由藤堂高虎修筑的高约30米的石墙[1]现在依然在三重县立上野高等学校的范围内矗立,城堡的米仓作为博物馆的一部分而被移到了上野公园内保存。现在,天守台上的3层3阶天守是昭和初年建的模拟天守,正式的叫法是伊贺文化产业城。


    IP属地:河北2楼2014-07-12 21:28
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      2025-05-22 02:56:59
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      1585年(天正13年),按照来自大和郡山,拜领了伊贺的筒井定次的要求,在因为天正伊贺之乱而被烧毁的平乐寺的遗迹上筑城。一般认为天守是3层的,不过史料并没有记载。现已确认城的东北角有筒井时代的天守[2]。
      但是定次因为行为不端而致使岛左近等重臣大量出走,最终在1608年(庆长13年)被德川家康下令撤换。后来此城成为了来自伊予·宇和岛的筑城高手藤堂高虎的下属城堡(他的居城是伊势国·津城),而进行了大规模的改造与修缮。
      改造是为了准备对付丰臣家的讨伐,因而加深了护城河,增高了石墙,并在城南建造了二之丸。天守的位置向西移动了,本来正打算要移筑今治城天守,不过为了向发布了天下普请令的丹波龟山城的建设进献而新建5层的天守。但是等到竣工的1612年(庆长17年)年大风毁坏了天守,外加因为丰臣家的灭亡而不再需要坚固的城堡,以及武家诸法度限制了新建以及改建城堡,在江沪时代没有再建。
      1825年(文政8年)藤堂高猷成为最后的城主。


      IP属地:河北4楼2014-07-12 21:30
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        1869年(明治2年)版籍奉还。
        明治维新后,和其他城一样,伊贺上野城石墙上的很多构造物被拆毁,并且因为较高的山冈此后也没有其他用处,城池的遗迹也渐渐变成了被野草覆盖的状态。
        1896年(明治29年)改善了这个状况的是伊贺出身的实业家田中善助,修整了城的周围使之成为公园作为居民休息的地方。
        1935年(昭和10年)众议院议员川崎克自己出资重建了天守。
        1967年(昭和42年)12月27日被认定为国家级历史遗迹。
        1980年(昭和55年)被用作为电影《影武者》的拍摄现场。
        2006年(平成18年)4月6日被选为日本100名城(47号),2007年(平成19年)6月全国规模的日本100名城邮戳征集开始。


        IP属地:河北5楼2014-07-12 21:30
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          平安时代
          城のある丘は平清盛の発愿によって建立された平楽寺という大寺院があった。
          室町时代
          伊贺上野城西の丸と后世に呼ばれることとなる丘陵には伊贺国守护である仁木氏の馆(伊贺の守护所)があった。
          戦国时代
          天正7年(1579年)9月、伊势国の织田信雄が8千兵を率いて伊贺平定に乗り出したが、伊贺众の前に败退し、天正9年(1581年)9月织田信长の援军をうけ4万兵で伊贺国を平定。织田信雄の家臣である滝川雄利を伊贺国守护とした。滝川雄利は大寺院、丸山城、滝川氏城を改修し伊贺国を支配した。本能寺の変后豊臣政権となると、天正12年(1584年)10月脇坂安治が伊贺国守护となったが、天正13年(1585年)5月に摂津国に移封された。
          筒井氏时代
          筒井天守迹の石碑
          同年8月 郡山城から移ってきたのが羽柴の姓を赐った筒井定次であった。天正伊贺の乱で焼け落ちた平楽寺、仁木古馆迹に筑城することにした。
          “ 迅ニ上野之駅ニ入来シ仁木友梅ノ舗地ヲ囲、仮ニ草馆ヲ造立シ屡比ニ幽栖ス。而后数千ノ役夫ヲ催、平楽寺・薬师寺ニケ场ノ荒地ヲ点シ、文禄年中ニ一城ヲ造毕ヌ。三层ノ高楼ヨリ内外ノ曲轮要害太厳重也


          IP属地:河北6楼2014-07-12 21:31
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            とあり、城は高丘の顶上を本丸とし、三层の天守を建て、本丸の西に二ノ丸、北の山下を三の丸を配し、大手を三の丸の北谷口とした。城代屋敷の北东隅に筒井时代の天守があったと考えられている[1]。
            1600年(庆长5年)、関ヶ原の戦いが起こると筒井定次は东军の徳川家康方につき、会津征伐に参戦し、上野城は筒井玄蕃が留守居役としたが、上野城を西军の摂津国高槻城主新庄直頼、直定父子に上野城が攻撃されたが、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡した。筒井定次は徳川家康の许しを得て直ちに军を引き返し、城を再夺取し事なきを得た。
            関ヶ原の戦いの戦后、新庄直頼は改易され筒井定次は本领安堵、伊贺上野藩を立藩した。しかし、徳川家康は大坂城を包囲する必要に迫られ、彦根城同様重要な地点である伊贺上野城を强固にすべく、徳川家康は筒井定次をかねてから不行状で岛清兴などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、庆长13年(1608年)6月に领地没収、磐城平城鸟居忠政のもとに预けた(筒井騒动)。一说には、筒井定次がキリシタン大名で弃教を闻き入れなかったためとも言われている。
            藤堂氏时代藤堂様御国入行列附版画/伊贺文化产业协会蔵
            藤堂高虎/个人蔵
            同年8月伊予国宇和岛城から筑城の名手とされる藤堂高虎が、伊贺国に入国した。大坂城に対抗する以外にも、大和国、纪伊国を抑えるためにも藤堂高虎の力が必要となったと思われている。庆长16年(1611年)正月より、伊贺上野城を大幅な改修に着手、大坂方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそいだ。
            “ 本城の西の空地を筑挙げ広め、西に幅十五间の深沟を掘り、高さ根石より十五间の高塁、南北押廻して百八十六间の石塁を筑き、南北の両隅に橹台を制し、是までの本城と合せて新に本丸とし、南面にして南北に二口を开く南侧の东西百三十间とし、北侧の东西百三十一间とす。东侧は乾堀共旧きを用い、西侧は几度新に南北百三十九间とす。比高塁摂坂の城塁より见事なり ”
            —公室年谱略
            としている。この「摂坂の城」とは豊臣时代の大坂城のことを指しており、高石垣の规模の大きさを物语っている。南侧を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を构筑した。天守の位置を西侧に移动し、今治城天守を移筑しようとしたが、天下普请となった丹波亀山城に献上したため新规に5层天守を建设した。
            筒井定次时代は、伊贺上野城は大坂城を守る出城としての机能を持った城であったのに対して、藤堂高虎时代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立场をとった城とされている。
            东西十三间、南北十一间、高さ五间の天守台を筑いた。天守阁の建设は五人の大工栋梁の分担工事とし、互いを竞わすなどされていたが、完成をひかえた庆长17年(1612年)9月2日、大岚のため三层目が西南に吹き倒れ、その上に五层目が落ち天守は倒壊した。大工や人夫合せて约180名が倒死、また多数の怪我人をだした。
            1614年(庆长19年)、1615年(元和元年)大坂の役で徳川家康の胜利となり、豊臣氏の灭亡で坚固な城が必要なくなり天守は再建されなかった。本丸に橹は建てられなかったが、外堀の土塁上には、二层橹がニ栋、単层橹が八栋、计十栋の橹が建てられ、また长さ二十一间、両袖に七间の多闻橹をつけた东大手门、西大手门も建てられた。藤堂高虎は大坂の役が终わった后、交通の便利がいい津城を本城とし、伊贺上野城を支城とした。
            一国一城令で伊贺上野城は伊贺国の城として存続が认められると、弟の藤堂高清を城代とし、藤堂高清の死后は藤堂元则が城代となり、1825年(文政8年)藤堂高猷が最后の城主となるまで世袭した。


            IP属地:河北7楼2014-07-12 21:32
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              上野城絵図/个人蔵

              上野城絵図の部分図/个人蔵

              ニ之丸橹図/个人蔵


              IP属地:河北8楼2014-07-12 21:33
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                藤堂高虎が大规模に改修した时は、大坂城の备えとして西侧の防备を固めた。これは、徳川家康が不利となった场合、この城で笼城する时に备えて、相当数の兵员を収容できるよう、细部の完备や美観を整えるより実戦本意に配虑した。藤堂高虎は伊贺忍者に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊贺上野城を改修の参考にしたという伝承が残っている。
                筒井定次时代の城を取り込み、大きさも约3倍となり7千坪に拡张した。筒井定次时代の本丸の西を拡张し、旧本丸と合せて新本丸とした。本丸の南には広大な外郭をつくり二ノ丸と呼ばれていたが、次第に名称も変わり东の高台と通称するようになった。东侧の外堀は218间、堀幅12间、南侧は488间、堀幅15间、西侧は254间、堀幅12间、北侧が17间、北の山下の土塁と堀は筒井氏时代のものを活用している。丸の内は高い禄の家臣の屋敷地となっていた。
                本丸の西、内堀を隔てた台地、现在の三重県立上野高等学校のグランド付近が、藩主の屋敷、御殿と呼ばれている。城下町は外堀の南に置かれ、本町筋、ニの町筋、三の町筋があり、三の町筋に家臣や住民の消费にそなえた商人町があった。三の町筋の南侧に堀が作られる予定であったが、中止になり外马场となった。これ以外に马场の南一帯は外轮と呼ばれる侍町、忍町が置かれ、更にその南に鉄炮组足軽の长屋が置かれ、鉄炮町と呼ばれていた。忍町の南一端はかや町と呼ばれる农家があったが、次第に町が形成され东の枝町と呼ばれていた。
                嘉永7年(1854年)6月に、伊贺上野地震があり伊贺上野城をはじめ城下町に大被害があり、城内の建物の多くが壊れ、石垣が所々で破损した。その后御殿、城代役所、武具蔵、米蔵をはじめ、东大手门、西大手门等、城として最小限のものが补修されたが、外郭の橹は再建されず、倒壊をまぬがれた太鼓橹と菱橹が残るものとなった。



                IP属地:河北9楼2014-07-12 21:34
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                  2025-05-22 02:50:59
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                  哈哈哈来看看
                  出门没带礼物,留葵花宝典一部。望楼主勤加练习,以后扬善除恶,维护世界和平的重任就交给你了…
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                  来自Android客户端10楼2014-07-13 11:00
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                    来拜访上野样的居城了。


                    IP属地:美国11楼2014-07-13 23:26
                    收起回复
                      恭喜恭喜


                      来自Android客户端12楼2014-07-14 00:07
                      收起回复
                        恭喜光政乔迁伊贺,送上一套忍者装备表示祝贺



                        13楼2014-07-14 00:51
                        收起回复
                          恭喜光政乔迁伊贺。


                          IP属地:江苏来自Android客户端14楼2014-07-14 07:09
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