とあり、城は高丘の顶上を本丸とし、三层の天守を建て、本丸の西に二ノ丸、北の山下を三の丸を配し、大手を三の丸の北谷口とした。城代屋敷の北东隅に筒井时代の天守があったと考えられている[1]。
1600年(庆长5年)、関ヶ原の戦いが起こると筒井定次は东军の徳川家康方につき、会津征伐に参戦し、上野城は筒井玄蕃が留守居役としたが、上野城を西军の摂津国高槻城主新庄直頼、直定父子に上野城が攻撃されたが、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡した。筒井定次は徳川家康の许しを得て直ちに军を引き返し、城を再夺取し事なきを得た。
関ヶ原の戦いの戦后、新庄直頼は改易され筒井定次は本领安堵、伊贺上野藩を立藩した。しかし、徳川家康は大坂城を包囲する必要に迫られ、彦根城同様重要な地点である伊贺上野城を强固にすべく、徳川家康は筒井定次をかねてから不行状で岛清兴などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、庆长13年(1608年)6月に领地没収、磐城平城鸟居忠政のもとに预けた(筒井騒动)。一说には、筒井定次がキリシタン大名で弃教を闻き入れなかったためとも言われている。
藤堂氏时代


藤堂様御国入行列附版画/伊贺文化产业协会蔵


藤堂高虎/个人蔵
同年8月伊予国宇和岛城から筑城の名手とされる藤堂高虎が、伊贺国に入国した。大坂城に対抗する以外にも、大和国、纪伊国を抑えるためにも藤堂高虎の力が必要となったと思われている。庆长16年(1611年)正月より、伊贺上野城を大幅な改修に着手、大坂方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそいだ。
“ 本城の西の空地を筑挙げ広め、西に幅十五间の深沟を掘り、高さ根石より十五间の高塁、南北押廻して百八十六间の石塁を筑き、南北の両隅に橹台を制し、是までの本城と合せて新に本丸とし、南面にして南北に二口を开く南侧の东西百三十间とし、北侧の东西百三十一间とす。东侧は乾堀共旧きを用い、西侧は几度新に南北百三十九间とす。比高塁摂坂の城塁より见事なり ”
—公室年谱略
としている。この「摂坂の城」とは豊臣时代の大坂城のことを指しており、高石垣の规模の大きさを物语っている。南侧を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を构筑した。天守の位置を西侧に移动し、今治城天守を移筑しようとしたが、天下普请となった丹波亀山城に献上したため新规に5层天守を建设した。
筒井定次时代は、伊贺上野城は大坂城を守る出城としての机能を持った城であったのに対して、藤堂高虎时代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立场をとった城とされている。
东西十三间、南北十一间、高さ五间の天守台を筑いた。天守阁の建设は五人の大工栋梁の分担工事とし、互いを竞わすなどされていたが、完成をひかえた庆长17年(1612年)9月2日、大岚のため三层目が西南に吹き倒れ、その上に五层目が落ち天守は倒壊した。大工や人夫合せて约180名が倒死、また多数の怪我人をだした。
1614年(庆长19年)、1615年(元和元年)大坂の役で徳川家康の胜利となり、豊臣氏の灭亡で坚固な城が必要なくなり天守は再建されなかった。本丸に橹は建てられなかったが、外堀の土塁上には、二层橹がニ栋、単层橹が八栋、计十栋の橹が建てられ、また长さ二十一间、両袖に七间の多闻橹をつけた东大手门、西大手门も建てられた。藤堂高虎は大坂の役が终わった后、交通の便利がいい津城を本城とし、伊贺上野城を支城とした。
一国一城令で伊贺上野城は伊贺国の城として存続が认められると、弟の藤堂高清を城代とし、藤堂高清の死后は藤堂元则が城代となり、1825年(文政8年)藤堂高猷が最后の城主となるまで世袭した。