六つ日足/桧扇に本房
(藤原氏高木氏流/菊池氏流?)
上妻氏は高木氏の一族とされるが、その出自は明确ではない。通说に従えば、藤原道隆を祖とし、その子隆宗が筑后守となって上妻郡に土着し、その子家久が上妻氏を称したとうことになっている。『尊卑分脉』には道隆の子に隆宗はみえないことから、隆宗の出自は藤原氏とするのはいささか怪しいということになる。
系図をみれば、家久の子に隆定・隆则・政则の三子があり、隆则の子に経家・则隆があって、则隆は菊池を号したとある。経家の曾孙家宗に至って藤原家宗として史料のうえにあらわれてくる。『草野系図』をみると、高木肥前守文贞の玄孙、下総守家秀の子を上妻家宗としている。そして家宗の子を家能とするところが、それぞれ共通している。つまり、家宗からが信じられるところで、それ以前は高木氏・菊池氏の系図をかりて作为したものと想像される。系谱的には、菊池氏・草野氏・龙造寺氏と同族ということになる。
家宗は『上妻文书』に、文治二年(1186)上妻庄地头职に补せられたことがみえ、さらに建长四年(1252)、上妻庄内地久志部・今弘・光友・豊福等七ケ所の地头职に补任されていることが知られる。
上妻氏は南北朝期に宫方として活跃し、戦国期は国人领主として八女郡光友村の山崎城および白木村藤城の城主であった。戦国期200町歩を领し、大友氏に属して龙造寺军と戦ったが、大友氏衰退后は龙造寺氏に降っている。天正十五年、秀吉の九州征伐后の国割り以后は一时、肥后国山鹿へ笼居したが、関ヶ原の役では上妻次郎兵卫尉が立花宗茂に従って军功のあったことが「上妻文书」から知られる。
八女市の后裔にあたる方の家には、镰仓以来より伝来の文书や戦国期の兜が所蔵されている。兜は头部の中央に亀裂が入っているが、実戦向きに造られた强固なものである。越前守镇政か、その子镇胜时代のものと推定される。上妻氏の家纹は「日足纹」、また「桧扇に一本房」であった。
(藤原氏高木氏流/菊池氏流?)
上妻氏は高木氏の一族とされるが、その出自は明确ではない。通说に従えば、藤原道隆を祖とし、その子隆宗が筑后守となって上妻郡に土着し、その子家久が上妻氏を称したとうことになっている。『尊卑分脉』には道隆の子に隆宗はみえないことから、隆宗の出自は藤原氏とするのはいささか怪しいということになる。
系図をみれば、家久の子に隆定・隆则・政则の三子があり、隆则の子に経家・则隆があって、则隆は菊池を号したとある。経家の曾孙家宗に至って藤原家宗として史料のうえにあらわれてくる。『草野系図』をみると、高木肥前守文贞の玄孙、下総守家秀の子を上妻家宗としている。そして家宗の子を家能とするところが、それぞれ共通している。つまり、家宗からが信じられるところで、それ以前は高木氏・菊池氏の系図をかりて作为したものと想像される。系谱的には、菊池氏・草野氏・龙造寺氏と同族ということになる。
家宗は『上妻文书』に、文治二年(1186)上妻庄地头职に补せられたことがみえ、さらに建长四年(1252)、上妻庄内地久志部・今弘・光友・豊福等七ケ所の地头职に补任されていることが知られる。
上妻氏は南北朝期に宫方として活跃し、戦国期は国人领主として八女郡光友村の山崎城および白木村藤城の城主であった。戦国期200町歩を领し、大友氏に属して龙造寺军と戦ったが、大友氏衰退后は龙造寺氏に降っている。天正十五年、秀吉の九州征伐后の国割り以后は一时、肥后国山鹿へ笼居したが、関ヶ原の役では上妻次郎兵卫尉が立花宗茂に従って军功のあったことが「上妻文书」から知られる。
八女市の后裔にあたる方の家には、镰仓以来より伝来の文书や戦国期の兜が所蔵されている。兜は头部の中央に亀裂が入っているが、実戦向きに造られた强固なものである。越前守镇政か、その子镇胜时代のものと推定される。上妻氏の家纹は「日足纹」、また「桧扇に一本房」であった。