百三十手を越えたくらいだろうか。一度取り上げた石を盘上に置かずまた碁笥に戻して、白川は静かに宣言した。
「负けました」
仆は思わず大きく一つため息をついた。互いに挨拶を交わして、石を片付ける前にしばし盘面を眺める。
头に血が上っていて冷静さとは程远い状态ではあった。だか。途中でやる気が失せるような最低な対局とは天と地ほどの违いがあった。绝対に负けるものかという子供じみた感情が思いがけない力になって、今までつちかってきた技术を引き出したのだ。终わってみたら、最近にはなく良く打てた碁だった。
どうしようもなくみっともない动机に支配されていた。こんな奴に、いや相手が谁であれ、仆以外の人间が进藤のことをあんな风に语るのを闻くのは耐えられない。许しがたい。
仆は自分がこういう具合に打っているのだとは今まで考えたこともなかった。もっと理性的なのだとばかり思っていた。
抑えていたから打てなかったのだろうか。
井戸の底で光明を见たように思ったとき。感叹の响きを含ませて彼が言った。
「やるなあ。さすがだね」
その声で、现実に浮上する。
「君は情绪がそのまま反映するタイプなんだね。そうは见えなかったけど」
言い置いて一足先に立ち上がってしまった。廊下に出たところを追いすがり、ようやくつかまえる。
「白川先生、待って下さい。进藤が」
思わず高くなった声を押さえなくてはならなかった。
「进藤と何があったんです」
彼は足を止めてゆっくり振り返った。
「つまらない真似をして悪かったね。かまをかけただけだよ。别に何もない」
「嘘だ」
なりふり构っていられなかった。近づいて、真颜になった目の奥を睨みつける。
彼は人差し指で眼镜の縁を上げて间をとった。迫っているのはこちらなのに、探られているような気分になる。やがて口を开くと落ち着いた口调で言った。
「あまり辛そうだったから、仆の家に泊めてあげたよ。信じるも信じないも胜手だけど、それだけだ。今のところはね」
全身の血が一瞬で沸腾してしまったかと思った。
「进藤に手を出すな」
…思わず、口をついて。
自分でも惊くほど低い声だった。それ以上は言叶にならず、奥歯を思い切り噛み缔めた。
彼は动揺した様子も见せず、穏やかな表情で仆の势いをまともに受け止めた。
「すごい目をするなあ」
と、感心したように呟いた后。
ふと眼光が锐くなる。他人の心を见透かそうとするかのように。そして、
「彼は君のものなのかな?死にかかっていても放っておくのに?」
と言った。
血の気が引いて颜色が青ざめるのが分かった。その场に冻り付いて动けなくなってしまった。
白川は厳しい目つきのままその仆を一瞥すると无言で立ち去った。仆は。足元の地面に穴が开いて立っている拠りどころがなくなっていくのを感じた。 …そうだ。仆は知っている。本当は。 固く闭ざし重石をしていた盖を突き上げて、何かが怒涛のように流れ込んできた。それに圧倒されて目が眩んで见えなくなった。
进藤が仆の前からだけでなく、この世のどこからも永久に消え去ってしまうのではないかと疑っていることを。
それなのに、それを止めようともせず、追いかけもせず立ち止まっているのだということを。手も足も出さずに放っているのだということを。
本当は知っているんだ。
なぜあの时、君が何と言おうと抱き缔めて离さず、侧にいたいんだと言わなかったのだろう。ずっとそうするつもりだった。何があろうと。
仆が去った后、君は泣いているのではないか。苦痛のあまり泣くこともできずに一人でただ震えているのではないか。
あの部屋で、一人で。
心の底でそう思っているにも関わらず。
确かめることはおろか动くことすらできないでいる。手足が何かに缚られでもしたように、体がすくんで动けない。
本当は、それが一番苦しい。
手を离したら失うかもしれないのに。このまま失ってもいいとは到底思えないのに。
すれ违う人の体が肩をかすめていった。突っ立っている仆を怪讶そうに见て通り过ぎていく。
それでも、长い间身动きひとつできなかった。 怖くて。
お前は弱いから。弱いお前はいらない。そう言われるのが怖くて。 白川は怒っていたのだろうか。
彼の教え子を一旦は爱しながら踏み止まれず、今でも爱しているのに踏み出せない仆に対して。
头の片隅でそう思った。** 皆が寝静まって家中に静寂が访れた。
俺もいったんは床につき、少しは眠ったらしい。だが、计ったように再びはっきりと覚醒した。时计を见ると、午前二时をまわったところだった。
起きたばかりでも头は冴え冴えとしていた。客间の一室、同じ部屋にいる和谷と白川先生を起こしてしまわないよう、横たわってしばらく気配を杀していた。
カーテンの隙间から、晧々と白い月が夜空を饰っているのが见えた。
物音を立てないようにそっと、布を横に引く。窓の向こうは、海だった。
月は、道标のように天空をただ一つ明るく浮かんでいた。淋しい导き手だと思った。そのおかげで空はうっすらと明るく、こちら侧、岸辺の人の営みの明りを反射して浜辺はなおのこと明るい。その间にはさまれた空间だけが、ぽっかりと黒かった。すべての色がその穴に吸い込まれてしまったみたいに。
どのくらいの时间、それを眺めていたのだろうか。
知らないうちに浜に降りてもっと近くでその光景を见つめていた。その辺にあった上着を一枚、羽织っただけで。
寒さは感じなかった。体の奥に染み込んだ音が高く低く、现実の波の振动と共鸣を起こしていた。潮の匂いが肺をいっぱいに満たした。
足を踏み出すと、砂に沈む。砂が俺を受け止めてくれた。 呼んでいる。 ここがどこで自分がどうしてここにいるのかということは吹き飞んでしまっていた。头には何もなく、ただ、月が行く先を示しているところへ行こうと思った。
ふと痛くないな、と考えて。実はずっと痛かったのだと気がついた。胸も手足も、そこいらじゅうが。
绝望を感じたわけでも、悲しくて胸がつぶれそうになっていたわけでもなく。そのときの俺は、からっぽだった。むしろ体は軽かった。后戻りできないスイッチだったのだと思った。
波と砂の境界线は刻一刻と形を変えていた。
ひたひたと押し寄せる水が踝を濡らし、さして厚くもない部屋着の裾から上にはいのぼってくる。押される力を感じるだけで、感覚は既に麻痹していた。
俺は前だけを见てひたすら暗暗に向かって进んだ。水の圧力が足を重くさせて上手く歩けないのがもどかしくなった。歩くそばから砂が失われ、大地が一足毎に崩れ去っていく。后ろの虚空にのまれて。この砂のように粉々になって、やがてはさらわれてしまう。俺の立っているところはこんなにも脆いものだったのだ。
地面がなくならないうちに远くまで行かなくては。
悬命だった。足元の水面から一メートル先も暗く何も见えず、水飞沫が体と颜に叩きつけてもまったく怖くなかった。悲しくもなかった。ただ早く、あの月の向こうに行きたかった。
その时、靴の先が何も捉えられないと思ったら、全身を支えていた力がいきなり别次元のものに変化した。
一瞬で大波にのみこまれて头と足の位置をどう固定したらいいのかわからなくなった。头を强く殴られたような冲撃と共に目と喉が潮の刺激でふさがれる。心臓の鼓动が全身に响いてその脉动しか感じられなくなり、目の前が真暗になった。
无意识に手を动かすとまだ水の底に触れた。それを掴んで体を立て直そうとがむしゃらに底をかき回す。流れていく海草が手にからんだ。音がなくなった。 ———このまま。 ひどくゆっくりと时间が流れた。 このままこうしていれば、终われる。
何もかもすべて、终わりにできる。
终わりにしてしまいたい。 强烈で抗いがたい感情。 そして今度こそ、一绪に连れて行ってもらうんだ。佐为のいるところに。佐为と一绪に。 それは恐ろしく甘美な诱惑だった。それしかないように思えた。俺は本心からそう愿った。
…そうしているのは至极简単なことだったのに。
次の瞬间、头が水の上に出て空気が流れ込み、海水とせめぎ合った。 佐为。
佐为は入水したのだと言っていた。
彼もこんな风に水に沈んでしまったのだろうか。
こんな风に、一人で。爱するものを自分から舍て去ってしまって。すべてのものに背を向けて行ってしまったのだろうか。
だから本当はものすごく淋しくて、そんなつもりではなく意识もせずに谁かを、爱する人を引きずり込まなくてはいられなかったのだろうか。今の俺のように。俺が塔矢を引きずり込まずにいられないように。
この次は俺が塔矢をここに连れてきてしまうのだろうか。
俺が消えたらお前は泣いて自分を责めるだろう。
壊してしまう。
あの优しい魂が、その优しさ故に自分を引き裂いてしまう。
だめだ、そんなの。
俺はお前を守りたいんだ。俺の一番大事なものなんだ。 いつの间にか泣いていた。潮水か涙かわからないもので颜中が濡れていた。あの日以来、涙なんかすっかり枯れてしまったと思っていたのに。
「…ちくしょお…」
咳き込みながら、吐き舍てた。 ずっとずっと、何かを引き换えにして、大事なものを差し出して、それで俺は今の强さを手に入れた。
碁の神様は俺に素晴らしく尊いものを与えてくれた。惜しげもなくその懐から取り出して。それはあまりにも美しく、あまりにも大きく、あまりにも重くて、俺は俺の器をどんどんからっぽにしなくてはならなかった。その代偿に大切なものを支払わなくてはならなかった。
何もかも捧げ尽くして、俺の中にはもう何も残っていない。この命の他に、ただ一つを除いては。 神様。
その一つだけは、やれないんだ。
どうかとりあげないで下さい。俺があいつを想う心を。
あいつの肌のぬくもりや俺を呼ぶ声が失われても、最后に残った、この俺が爱する心を夺われたくない。
お愿いだからそれをとりあげないで。俺にあいつを壊させないで下さい。 どこをどう动かして辿りつくことができたのか、波打ち际に転がっていた。心臓は辛うじて动いていた。陆に上がった鱼のように重力に押しつぶされて体中が悲鸣をあげている。五感が最悪のタイミングで戻ってきた。すぐそこに人家の明りが见えたが、とても进めそうになかった。
「塔矢」
砂混じりの、水とも思えない液体を吐き出して、からからになった喉でその名前を呼んでいた。 ———塔矢。 呼んでどうしようというのでもなく、ただ口からこぼれ落ちるように呼び続けた。
身胜手だろうと何だろうと、构わない。相反するどんな思いも混ざり合ってしまい、一つの祈りのようになって。
呼べば呼ぶほど応えが返ってくるところに行きたいと思ったのかもしれない。あいつの腕の中に。
「进藤くん」
谁かがそれに答えた。颜を上げられずにいると、かぶさってくる布の感触と共に抱き起こされていた。
「白川先生?」
それだけ言うのがやっとだった。人の声と姿に安堵したせいか、ふっつりと糸が切れて急速に意识が远ざかっていった。