泉水☆冰冰吧 关注:295贴子:35,763
  • 10回复贴,共1

【日语原文】阴翳礼讃(いんえいらいさん)

只看楼主收藏回复

放些资料在这里←w←
未来可能会放些西班牙语跟英语的资料。
因为在豆瓣里看上去非常累,so...
复制过来当做是提高自己的日语能力吧,笑


IP属地:广东1楼2013-08-09 19:59回复
    〇普请道楽
    今日、普请道楽の人が纯日本风の家屋を建てて住まおうとすると、电気や瓦斯(ガス)や水道等の取附け片に苦心を払い、何とかしてそれらの施设が日本座敷と调和するように工夫を凝らす风があるのは、じぶんで家を建てた経験のない者でも、待合料理屋旅馆等の座敷へ这入ってみれば常に気が付くことであろう。独りよがりの茶人などが科学文明の恩沢を度外视して、辺鄙な田舎にでも草庵を営むなら格别、いやしくも相当の家族を拥して都会に住居する以上、いくら日本风にするからと云って、近代生活に必要な暖房や照明や卫生の设备を斥ける訳には行かない。で、凝り性の人は电话一つ取り附けるにも头を悩まして、梯子段の裏とか、廊下の隅とか、出来るだけ目障りにならない场所に持って行く。その他庭の电线は地下线にし、部屋のスイッチは押入れや地袋の中に隠し、コードは屏风(びょうぶ)の荫を这わす等、いろいろ、考えた扬句、中には神経质に作为をし过ぎて、却ってうるさく感ぜられるような场合もある。実际电灯などはもうわれわれの眼の方が驯れッこになってしまっているから、なまじなことをするよりは、あの在来の乳白ガラスの浅いシェードを附けて、球をムキ出しに见せて置く方が、自然で、素朴な気持もする。夕方、汽车の窓などから田舎の景色を眺めている时、茅葺きの百姓家の障子の荫に、今では时代おくれのしたあの浅いシェードを附けた电球がぽつんと灯っているのを见ると、风流にさえ思えるのである。しかし煽风器などと云うものになると、あの音响と云い形态と云い、未だに日本座敷とは调和しにくい。それも普通の家庭なら、イヤなら使わないでも済むが、夏向き、客商売の家などでは、主人の趣味にばかり媚びる訳に行かない。私の友人の偕楽园主人は随分普请に凝る方であるが、煽风器を嫌って久しい间客间に取り附けずにいたところ、毎年夏になると客から苦情が出るために、结局我を折って使うようになってしまった。かく云う私なぞも、先年身分不相応な大金を投じて家を建てた时、それに似たような経験を持っているが、细かい建具や器具の末まで気にし出したら、种々な困难に行きあたる。たとえば障子一枚にしても、趣味から云えばガラスを篏めたくないけれども、そうかと云って、彻底的に纸ばかりを使おうとすれば、采光や戸缔まり等の点で差支えが起る。よんどころなく内侧を纸贴りにして、外侧をガラス张りにする。そうするためには表と裏と桟を二重にする必要があり、従って费用も嵩(かさ)むのであるが、さてそんなにまでしてみても、外から见ればたゞのガラス戸であり、内から见れば纸のうしろにガラスがあるので、やはり本当の纸障子のようなふっくらした柔かみがなく、イヤ味なものになりがちである。そのくらいならたゞのガラス戸にした方がよかったと、やっとその时に后悔するが、他人の场合は笑えても、自分の场合は、そこまでやってみないことには中々あきらめが付きにくい。近来电灯の器具などは、行灯式のもの、提灯式のもの、八方式のもの、烛台式のもの等、日本座敷に调和するものがいろいろ、売り出されているが、私はそれでも気に入らないで、昔の石油ランプや有明行灯や枕行灯を古道具屋から捜して来て、それへ电球を取り附けたりした。分けても苦心したのは暖房の设计であった。と云うのは、およそストーヴと名のつくもので日本座敷に调和するような形态のものは一 つもない。その上瓦斯(ガス)ストーヴはぼうぼう燃える音がするし、また烟突でも付けないことにはじきに头痛がして来るし、そう云う点では理想的だと云われる电気ストーヴにしても、形态の面白くないことは同様である。电车で使っているようなヒーターを地袋の中へ取り附けるのは一策だけれども、やはり赤い火が见えないと、冬らしい気分にならないし、家族の団薬にも不便である。私はいろいろ、智慧を绞って、百姓家にあるような大きな炉を造り、中へ电気炭を仕込んでみたが、これは汤を沸かすにも部屋を温めるにも都合がよく、费用が嵩むと云う点を除けば、様式としてはまず成功の部类であった。で、暖房の方はそれでどうやら巧く行くけれども、次に困るのは、浴室と厕(かわや)である。偕楽园主人は浴槽や流しにタイルを张ることを嫌がって、お客用の风吕场を纯然たる木造にしているが、経済や実用の点からは、タイルの方が方々优っていることは云うまでもない。たゞ、天井、柱、羽目板等に结构な日本材を使った场合、一部分をあのケバケバしいタイルにしては、いかにも全体との映りが悪い。出来たてのうちはまだいいが、追い追い、年数が経って、板や柱に木目(もくめ)の味が出て来た时分、タイルばかりが白くつるつるに光っていられたら、それこそ木に竹を接いだようである。でも浴室は、趣味のために実用の方を几分犠牲に供しても済むけれども、厕になると、一层厄介な问题が起るのである。


    IP属地:广东2楼2013-08-09 20:00
    回复
      2025-05-31 17:00:37
      广告
      〇京都や奈良の寺院
      私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔风の、うすぐらい、そうしてしかも扫除の行き届いた厕へ案内される毎に、つくづく日本建筑の有难みを感じる。茶の间もいゝにはいゝけれども、日本の厕は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋(おもや)から离れて、青叶の匂や苔の匂のして来るような植え込みの荫に设けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光线の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに教えられ、それは宁ろ生理的快感であると云われたそうだが、その快感を味わう上にも、闲寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青叶の色を见ることの出来る日本の厕ほど、恰好な场所はあるまい。そうしてそれには、缲り返して云うが、或る程度の薄暗さと、彻底的に清洁であることと、蚊の呻(うな)りさえ耳につくような静かさとが、必须の条件なのである。私はそう云う厕にあって、しとしとと降る雨の音を聴くのを好む。殊に関东の厕には、床に细长い扫き出し窓がついているので、轩端や木の叶からしたゝり落ちる点滴が、石灯笼の根を洗い飞び石の苔を湿おしつゝ土に沁み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことが出来る。まことに厕は虫の音によく、鸟の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も适した场所であって、恐らく古来の俳人は此処から无数の题材を得ているであろう。されば日本の建筑の中で、一番风流に出来ているのは厕であるとも云えなくはない。総べてのものを诗化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不洁であるべき场所を、却って、雅致のある场所に変え、花鸟风月と结び付けて、なつかしい连想の中へ包むようにした。これを西洋人が头から不浄扱いにし、公众の前で口にすることをさえ忌むのに比べれば、我等の方が遥かに贤明であり、真に风雅の骨髄を得ている。强いて缺点を云うならば、母屋から离れているために、夜中に通うには便利が悪く、冬は殊に风邪を引く忧いがあることだけれども、「风流は寒さものなり」と云う斎藤绿雨の言の如く、あゝ云う场所は外気と同じ冷たさの方が気持がよい。ホテルの西洋便所で、スチームの温気がして来るなどは、まことにイヤなものである。ところで、数寄屋普请を好む人は、谁しもこう云う日本流の厕を理想とするであろうが、寺院のように家の广い割りに人数が少く、しかも扫除の手が揃っている所はいゝが、普通の住宅で、あゝ云う风に常に清洁を保つことは容易でない。取り分け床を板张りや畳にすると、礼仪作法をやかましく云い、雑巾がけを励行しても、つい汚れが目立つのである。で、これも结局はタイルを张り诘め、水洗式のタンクや便器を取り附けて、浄化装置にするのが、卫生的でもあれば、手数も省けると云うことになるが、その代り「风雅」や「花鸟风月」とは全く縁が切れてしまう。彼処がそんな风にぱっと明るくて、おまけに四方が真っ白な壁だらけでは、漱石先生のいわゆる生理的快感を、心ゆく限り享楽する気分になりにくい。なるほど、隅から隅まで纯白に见え渡るのだから确かに清洁には违いないが、自分の体から出る物の落ち着き先について、そうまで念を押さずとものことである。いくら美人の玉の肌でも、お臀や足を人前へ出しては失礼であると同じように、あゝムキ出しに明るくするのはあまりと云えば无躾千万、见える部分が清洁であるだけ见えない部分の连想を挑発させるようにもなる。やはりあゝ云う场所は、もやもやとした薄暗がりの光线で包んで、何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦胧(もうろう)とぼかして置いた方がよい。まあそんな訳で、私も自分の家を建てる时、浄化装置にはしたものの、タイルだけは一切使わぬようにして、床には楠の板を张り诘め、日本风の感じを出すようにしてみたが、さて困ったのは便器であった。と云うのは、御承知の如く、水洗式のものは皆真っ白な磁気で出来ていて、ピカピカ光る金属制の把手などが附いている。ぜんたい私の注文を云えば、あの器は、男子用のも、女子用のも、木制の奴が一番いゝ。蝋涂りにしたのは最も结构だが、木地のまゝでも、年月を経るうちには适当に黒ずんで来て、木目が魅力を持つようになり、不思议に神経を落ち着かせる。分けてもあの、木制の朝颜に青々とした杉の叶を诘めたのは、眼に快いばかりでなく些の音响をも立てない点で理想的と云うべきである。私はあゝ云う赘沢な真似は出来ないまでも、せめて自分の好みに叶った器を造り、それへ水洗式を応用するようにしてみたいと思ったのだが、そう云うものを特别に誂えると、よほどの手间と费用が悬るのであきらめるより外はなかった。そしてその时に感じたのは、照明にしろ、暖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのに勿论异议はないけれども、それならそれで、なぜもう少しわれわれの习惯や趣味生活を重んじ、それに顺応するように改良を加えないのであろうか、と云う一事であった。


      IP属地:广东3楼2013-08-09 20:01
      回复
        〇行灯式の电灯
        既に行灯式の电灯が流行り出して来たのは、われわれが一时忘れていた「纸」と云うものの持つ柔かみと温かみに再び眼ざめた结果であり、それの方がガラスよりも日本家屋に适することを认めて来た证拠であるが、便器やストーヴは、今以てしっくり调和するような形式のものが売り出されていない。暖房は私が试みたように炉の中へ电気炭を仕込むのが一番いゝように思うけれども、かゝる简単な工夫をすら施そうとする者がなく、(贫弱な电気火钵と云うものはあるが、あれは暖房の用をなさないこと、普通の火钵と同じである)出来合いの品と云えば、皆あの不恰好な西洋风の暖炉である。が、こう云う些末な衣食住の趣味について彼れ此れと気を遣うのは赘沢である。寒暑や饥饿を凌ぐにさえ足りれば様式などは问う所でないと云う人もあろう。事実、いくら痩せ我慢をしてみても「雪の降る日は寒くこそあれ」で眼前に便利な器具があれば、风流不风流を论じている暇はなく、滔々としてその恩沢に浴する気になるのは、已むを得ない趋势であるけれども、私はそれを见るにつけても、もし东洋に西洋とは全然别个の、独自の科学文明が発达していたならば、どんなにわれわれの社会の有様が今日とは违ったものになっていたであろうか、と云うことを常に考えさせられるのである。たとえば、もしわれわれがわれわれ独自の物理学を有し、化学を有していたならば、それに基づく技术や工业もまた自(おのずか)ら别様の発展を遂げ、日用百般の机械でも、薬品でも、工艺品でも、もっとわれわれの国民性に合致するような物が生れてはいなかったであろうか。いや、恐らくは、物理学そのもの、化学そのものの原理さえも、西洋人の见方とは违った见方をし、光线とか、电気とか、原子とかの本质や性能についても、今われわれが教えられているようなものとは、异った姿を露呈していたかも知れないと思われる。私にはそう云う学理的のことは分らないから、たゞぼんやりとそんな想像を逞しゅうするだけであるが、しかし少くとも、実用方面の発明が独创的の方向を辿っていたとしたならば、衣食住の様式は勿论のこと、引いてはわれらの政治や、宗教や、艺术や、実业等の形态にもそれが广泛な影响を及ぼさない筈はなく、东洋は东洋で别个の乾坤を打开したであろうことは、容易に推测し得られるのである。卑近な例を取ってみると、私はかつて「文艺春秋」に万年笔と毛笔との比较を书いたが、仮りに万年笔と云うものを昔の日本人か支那人が考案したとしたならば、必ず穂先をペンにしないで毛笔にしたであろう。そしてインキもあゝいう青い色でなく、墨汁に近い液体にして、それが轴から毛の方へ渗み出るように工夫したであろう。さすれば、纸も西洋纸のようなものでは不便であるから、大量生产で制造するとしても、和纸に似た纸质のもの、改良半纸のようなものが最も要求されたであろう。纸や墨汁や毛笔がそう云う风に発达していたら、ペンやインキが今日の如き流行を见ることばなかったであろうし、従ってまたローマ字论などが幅を利かすことも出来まいし、汉字や仮名文字に対する一般の爱着も强かったであろう。いや、そればかりでない、我等の思想や文学さえも、或はこうまで西洋を模仿せず、もっと独创的な新天地へ突き进んでいたかも知れない。かく考えて来ると、些细な文房具ではあるが、その影响の及ぶところは无辺际に大きいのである。


        IP属地:广东4楼2013-08-09 20:02
        回复
           〇小说家の空想
          そう云うことを考えるのは小说家の空想であって、もはや今日になってしまった以上、もう一度逆戻りをしてやり直す訳に行かないことは分りきっている。だから私の云うことは、今更不可能事を愿い、愚痴をこぼすのに过ぎないのであるが、愚痴は愚痴として、とにかく我等が西洋人に比べてどのくらい损をしているかと云うことは、考えてみても差支えあるまい。つまり、一と口に云うと、西洋の方は顺当な方向を辿って今日に到达したのであり、我等の方は、优秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代りに、过去数千年来発展し来った进路とは违った方向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障や不便が起っていると思われる。尤もわれわれを放っておいたら、五百年前も今日も物质的には大した进展をしていなかったかも知れない。现に支那や印度の田舎へ行けば、お釈迦様や孔子様の时代とあまり変らない生活をしているでもあろう。だがそれにしても自分たちの性に合った方向だけは取ってていたであろう。そして缓慢にではあるが、いくらかずつの进歩をつゞけて、いつかは今日の电车や飞行机やラジオに代るもの、それは他人の借り物でない、ほんとうに自分たちに都合のいゝ文明の利器を発见する日が来なかったとは限るまい。早い话が、映画を见ても、アメリカのものと、佛兰西(フランス)や独逸(ドイツ)のものとは、阴翳や、色调の工合が违っている。演技とか脚色とかは别にして、写真面だけで、何処かに国民性の差异が出ている。同一の机械や薬品やフィルムを使ってもなおかつそうなのであるから、われわれに固有の写真术があったら、どんなにわれわれの皮肤や容貌や気候风土に适したものであったかと思う。蓄音器やラジオにしても、もしわれわれが発明したなら、もっとわれわれの声や音楽の特长を生かすようなものが出来たであろう。元来われわれの音楽は、控え目なものであり、気分本位のものであるから、レコードにしたり、拡声器で大きくしたりしたのでは、大半の魅力が失われる。话术にしてもわれわれの方のは声が小さく、言叶数が少く、そうして何よりも「间」が大切なのであるが、机械にかけたら「间」は完全に死んでしまう。そこでわれわれは、机械に迎合するように、却ってわれわれの艺术自体を歪めて行く。西洋人の方は、もともと自分たちの间で発达させた机械であるから、彼等の艺术に都合がいゝように出来ているのは当り前である。そう云う点で、われわれは実にいろいろの损をしていると考えられる。


          IP属地:广东5楼2013-08-09 20:02
          回复
            〇纸
            纸と云うものは支那人の発明であると闻くが、われわれは西洋纸に対すると、単なる実用品と云う以外に何の感じも起らないけれども、唐纸や和纸の肌理(きめ)を见ると、そこに一种の温かみを感じ、心が落ち着くようになる。同じ白いのでも、西洋纸の白さと奉书や白唐纸の白さとは违う。西洋纸の肌は光线を拨ね返すような趣があるが、奉书や唐纸の肌は、柔かい初雪の面のように、ふっくらと光线を中へ吸い取る。そうして手ざわりがしなやかであり、折っても畳んでも音を立てない。それは木の叶に触れているのと同じように物静かで、しっとりしている。ぜんたいわれわれは、ピカピカ光るものを见ると心が落ち着かないのである。西洋人は食器などにも银や钢鉄やニッケル制のものを用いて、ピカピカ光る様に研(みが)き立てるが、われわれはあゝ云う风に光るものを嫌う。われわれの方でも、汤沸しや、杯や、铫子等に银制のものを用いることはあるけれども、あゝ云う风に研き立てない。却って表面の光りが消えて、时代がつき、黒く焼けて来るのを喜ぶのであって、心得のない下女などが、折角さびの乗って来た银の器をピカピカに研いたりして、主人に叱られることがあるのは、何処の家庭でも起る事件である。近来、支那料理の食器は一般に锡制のものが使われているが、恐らく支那人はあれが古色を帯びて来るのを爱するのであろう。新しい时はアルミニュームに似た、あまり感じのいゝものではないが、支那人が使うとあゝ云う风に时代をつけ、雅味のあるものにしてしまわなければ承知しない。そしてあの表面に诗の文句などが雕ってあるのも、肌が黒ずんで来るに従い、しっくりと似合うようになる。つまり支那人の手にかゝると、薄ッぺらでピカピカする锡と云う軽金属が、朱泥のように深みのある、沈んだ、重々しいものになるのである。支那人はまた玉(ぎょく)と云う石を爱するが、あの、妙に薄浊りのした、几百年もの古い空気が一つに凝结したような、奥の奥の方までどろんとした钝い光りを含む石のかたまりに魅力を感ずるのは、われわれ东洋人だけではないであろうか。ルビーやエメラルドのような色彩があるのでもなければ、金刚石のような辉きがあるのでもないあゝ云う石の何処に爱着を覚えるのか、私たちにもよく分らないが、しかしあのどんよりした肌を见ると、いかにも支那の石らしい気がし、长い过去を持つ支那文明の滓(おり)があの厚みのある浊りの中に堆积しているように思われ、支那人があゝ云う色沢や物质を嗜好するのに不思议はないと云うことだけは、颔ける。水晶などにしても、近顷は智利(チリ)から沢山输入されるが、日本の水晶に比べると、智利(チリ)のはあまりきれいに透きとおり过ぎている。昔からある甲州产の水晶と云うものは、透明の中にも、全体にほんのりとした昙りがあって、もっと重々しい感じがするし、草入り水晶などと云って、奥の方に不透明な固形物の混入しているのを、宁ろわれわれは喜ぶのである。ガラスでさえも、支那人の手に成った乾隆グラスと云うものは、ガラスと云うよりも玉(ぎょく)か玛瑙(めのう)に近いではないか。玻璃を制造する术は早くから东洋にも知られていながら、それが西洋のように発达せずに终り、陶器の方が进歩したのは、よほどわれわれの国民性に関系する所があるに违いない。われわれは一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず时代のつやを连想させるような、浊りを帯びた光りなのである。尤も时代のつやなどと云うとよく闻えるが、実を云えば手垢の光りである。支郡に「手沢」と云う言叶があり、日本に「なれ」と云う言叶があるのは、长い年月の间に、人の手が触って、一つ所をつるつる抚でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、云い换えれば手垢に违いない。して见れば、「风流は寒きもの」であると同时に、「むさきものなり」と云う警句も成り立つ。とにかくわれわれの喜ぶ「雅致」と云うものの中には几分の不洁、かつ非卫生的分子があることは否まれない。西洋人は垢を根こそぎ発き立てて取り除こうとするのに反し、东洋人はそれを大切に保存して、そのまゝ美化する、と、まあ负け惜しみを云えば云うところだが、因果なことに、われわれは人间の垢や油烟や风雨のよごれが附いたもの、乃至はそれを想い出させるような色あいや光沢を爱し、そう云う建物や器物の中に住んでいると、奇妙に心が和やいで来、神経が安まる。それで私はいつも思うのだが、病院の壁の色や手术服や医疗机械なんかも、日本人を相手にする以上、あゝピカピカするものや真っ白なものばかり并べないで、もう少し暗く、柔かみを附けたらどうであろう。もしあの壁が砂壁か何かで、日本座敷の畳の上に卧(ね)ながら治疗を受けるのであったら、患者の兴奋が静まることは确かである。われわれが歯医者へ行くのを嫌うのは、一つにはかりかりと云う音响にも因るが、一つにはガラスや金属制のピカピカする物が多过ぎるので、それに怯えるせいもある。私は神経衰弱の激しかった时分、最新式の设备を夸るアメリカ帰りの歯医者と闻くと、却って恐毛をふるったものだった。そして田舎の小都会などにある、昔风の日本家屋に手术室を设けた、时代后れのしたような歯医者の所へ好んで出かけた。そうかと云って、古色を帯びた医疗机械なんかも困ることは困るが、もし近代の医术が日本で成长したのであったら、病人を扱う设备や机械も、何とか日本座敷に调和するように考案されていたであろう。これもわれわれが借り物のために损をしている一つの例である。


            IP属地:广东6楼2013-08-09 20:03
            回复
              〇吸い物椀
              私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鸣っている、あの远い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる时、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。茶人が汤のたぎるおとに尾上の松风を连想しながら无我の境に入ると云うのも、恐らくそれに似た心特なのであろう。日本の料理は食うものでなくて见るものだと云われるが、こう云う场合、私は见るものである以上に瞑想するものであると云おう。そうしてそれは、暗にまたゝく蝋烛(ろうそく)の灯と漆の器とが合奏する无言の音楽の作用なのである。かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹(ようかん)の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉(ぎょく)のように半透明に昙った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って梦みる如きはの明るさを御んでいる感じ、あの色あいの深さ、复雑さは、西洋の菓子には绝対に见られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単纯さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを涂り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて见分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ时、あたかも室内の暗黒が一个の甘い块になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に异様な深みが添わるように思う。けだし料理の色あいは何処の国でも食器の色や壁の色と调和するように工夫されているのであろうが、日本料理は明るい所で白ッちゃけた器で食べては慥かに食欲が半减する。たとえばわれわれが毎朝たべる赤味噌の汁なども、あの色を考えると、昔の薄暗い家の中で発达したものであることが分る。私は或る茶会に呼ばれて味噌汁を出されたことがあったが、いつもは何でもなくたべていたあのどろどろの赤土色をした汁が、覚束ない蝋烛(ろうそく)のあかりの下で、黒うるしの椀に淀んでいるのを见ると、実に深みのある、うまそうな色をしているのであった。その外醤油などにしても、上方では刺身や渍物やおひたしには浓い口の「たまり」を使うが、あのねっとりとしたつやのある汁がいかに阴翳に富み、暗と调和することか。また白味噌や、豆腐や、蒲鉾や、とろゝ汁や、白身の刺身や、あゝ云う白い肌のものも、周囲を明るくしたのでは色が引き立たない。第一饭にしてからが、ぴかぴか光る黒涂りの饭柜(めしびつ)に入れられて、暗い所に置かれている方が、见ても美しく、食欲をも刺戟する。あの、炊きたての真っ白な饭が、ぱっと盖を取った下から暖かそうな汤気を吐きながら黒い器に盛り上って、一と粒一と粒真珠のようにかゞやいているのを见る时、日本人なら谁しも米の饭の有难さを感じるであろう。かく考えて来ると、われわれの料理が常に阴翳を基调とし、暗と云うものと切っても切れない関系にあることを知るのである。


              IP属地:广东8楼2013-08-09 20:07
              回复
                  〇建筑のこと
                私は建筑のことについては全く门外汉であるが、西洋の寺院のゴシック建筑と云うものは屋根が高く高く尖って、その先が天に冲せんとしているところに美観が存するのだと云う。これに反して、われわれの国の伽蓝では建物の上にまず大きな甍を伏せて、その庇(ひさし)が作り出す深い广い荫の中へ全体の构造を取り込んでしまう。寺院のみならず、宫殿でも、庶民の住宅でも、外から见て最も眼立つものは、或る场合には瓦葺き、或る场合には茅葺きの大きな屋根と、その庇の下にたゞよう浓い暗である。时とすると、白昼といえども轩から下には洞穴のような暗が绕っていて戸口も扉も壁も柱も殆ど见えないことすらある。これは知恩院や本愿寺のような宏壮な建筑でも、草深い田舎の百姓家でも同様であって、昔の大概な建物が轩から下と轩から上の屋根の部分とを比べると、少くとも眼で见たところでは、屋根の方が重く、堆く、面积が大きく感ぜられる。左様にわれわれが住居を営むには、何よりも屋根と云う伞を拡げて大地に一廓の日かげを落し、その薄暗い阴翳の中に家造りをする。もちろん西洋の家屋にも屋根がない訳ではないが、それは日光を遮蔽するよりも雨露をしのぐための方が主であって、荫はなるべく作らないようにし、少しでも多く内部を明りに曝すようにしていることは、外形を见ても领かれる。日本の屋根を伞とすれば、西洋のそれは帽子でしかない。しかも鸟打帽子のように出来るだけ锷(つば)を小さくし、日光の直射を近々と轩端に受ける。けだし日本家の屋根の庇が长いのは、気候风土や、建筑材料や、その他いろいろの関系があるのであろう。たとえば炼瓦やガラスやセメントのようなものを使わないところから、横なぐりの风雨を防ぐためには庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに违いないが、是非なくあゝなったのでもあろう。が、美と云うものは常に生活の実际から発达するもので、暗い部屋に住むことを余仪なくされたわれわれの先祖は、いつしか阴翳のうちに美を発见し、やがては美の目的に添うように阴翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く阴翳の浓淡に依って生れているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を见てその简素なのに惊き、たゞ灰色の壁があるばかりで何の装饰もないと云う风に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは阴翳の谜を解しないからである。われわれは、それでなくても太阳の光线の这入りにくい座敷の外侧へ、土庇を出したり縁侧を附けたりして一层日光を远のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この间接の钝い光线に外ならない。われわれは、この力のない、わびしい、果敢ない光线が、しんみり落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと调子の弱い色の砂壁を涂る。土蔵とか、厨とか、廊下のようなところへ涂るには照りをつけるが、座敷の壁は殆ど砂壁で、めったに光らせない。もし光らせたら、その乏しい光线の、柔かい弱い味が消える。われ等は何処までも、见るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り着いて辛くも余命を保っている、あの繊细な明るさを楽しむ。我等に取ってはこの壁の上の明るさ或はほのぐらさが何物の装饰にも优るのであり、しみじみと见饱きがしないのである。さればそれらの砂壁がその明るさを乱さないようにとたゞ一と色の无地に涂ってあるのも当然であって、座敷毎に少しずつ地色は违うけれども、何とその违いの微かであることよ。それは色の违いと云うよりもほんの仅かな浓淡の差异、见る人の気分の相违と云う程のものでしかない。しかもその壁の色のほのかな违いに依って、また几らかずつ各々の部屋の阴翳が异なった色调を帯びるのである。尤も我等の座敷にも床の间と云うものがあって、挂け轴を饰り花を活けるが、しかしそれらの轴や花もそれ自体が装饰の役をしているよりも、阴翳に深みを添える方が主になっている。われらは一つの轴を挂けるにも、その轴物とその床の间の壁との调和、即ち「床うつり」を第一に贵ぶ。われらが挂け轴の内容を成す书や絵の巧拙と同様の重要さを表具(ひょうぐ)に置くのも、実にそのためであって、床うつりが悪かったら如何なる名书画も挂け轴としての価値がなくなる。それと反対に一つの独立した作品としては大した杰作でもないような书画が、茶の间の床に挂けてみると、非常にその部屋との调和がよく、轴も座敷も俄かに引き立つ场合がある。そしてそう云う书画、それ自身としては格别のものでもない轴物の何処が调和するのかと云えば、それは常にその地纸や、墨色や、表具(ひょうぐ)の裂(きれ)が持っている古色にあるのだ。その古色がその床の间や座敷の暗さと适宜な钓り合いを保つのだ。われわれはよく京都や奈良の名刹を访ねて、その寺の宝物と云われる轴物が、奥深い大书院の床の间にかゝっているのを见せられるが、そう云う床の间は大概昼も薄暗いので、図柄などは见分けられない、たゞ案内人の说明を闻きながら消えかゝった墨色のあとを辿って多分立派な絵なのであろうと想像するばかりであるが、しかしそのぼやけた古画と暗い床の间との取り合わせが如何にもしっくりしていて、図柄の不鲜明などは聊かも问题でないばかりか却ってこのくらいな不鲜明さがちょうど适しているようにさえ感じる。つまりこの场合、その絵は覚束ない弱い光りを受け留めるための一つの奥床しい「面」に过ぎないのであって、全く砂壁と同じ作用をしかしていないのである。われらが挂け轴を択ぶのに时代や「さび」を珍重する理由はここにあるので、新画は水墨や淡彩のものでも、よほど注意しないと床の间の阴翳を打ち壊すのである。
                  〇日本座敷
                もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の间は最も浓い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の间を见る毎に、いかに日本人が阴翳の秘密を理解し、光りと荫との使い分けに巧妙であるかに感叹する。なぜなら、そこにはこれと云う特别なしつらえがあるのではない。要するにたゞ清楚な木材と清楚な壁とを以て一つの凹んだ空间を仕切り、そこへ引き入れられた光线が凹みの此処彼処へ朦胧(もうろう)たる隈(くま)を生むようにする。にも拘らず、われらは落悬(おとしがけ)のうしろや、花活の周囲や、违い棚の下などを填(う)めている暗を眺めて、それが何でもない荫であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の闲寂がその暗がりを领しているような感铭を受ける。思うに西洋人の云う「东洋の神秘」とは、かくの如き暗がりが持つ无気味な静かさを指すのであろう。われらといえども少年の顷は、日の目の届かぬ茶の间や书院の床の间の奥を视つめると、云い知れぬ怖れと寒けを覚えたものである。しかもその神秘の键は何処にあるのか。种明かしをすれば、毕竟それは阴翳の魔法であって、もし隅々に作られている荫を追い除けてしまったら、忽焉としてその床の间はたゞの空白に帰するのである。われらの祖先の天才は、虚无の空间を任意に遮蔽して自(おのずか)ら生ずる阴翳の世界に、いかなる壁画や装饰にも优る幽玄味を持たせたのである。これは简単な技巧のようであって、実は中々容易でない。たとえば床脇の窓の刳(く)り方、落悬の深さ、床框の高さなど、一つ一つに眼に见えぬ苦心が払われていることば推察するに难くないが、分けても私は、书院の障子のしろじろとしたほの明るさには、ついその前に立ち止まって时の移るのを忘れるのである。元来书院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で书见をするためにあゝ云う窓を设けたのが、いつしか床の间の明り取りとなったのであろうが、多くの场合、それは明り取りと云うよりも、むしろ侧面から射して来る外光を一旦障子の纸で滤过して、适当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光线の明りは、何と云う寒々(さむざむ)とした、わびしい色をしていることか。庇をくゞり、廊下を通って、ようようそこまで辿り着いた庭の阳光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、たゞ障子の纸の色を白々と际立たせているに过ぎない。私はしばしばあの障子の前に伫(たたず)んで、明るいけれども少しも眩ゆさの感じられない纸の面を视つめるのであるが、大きな伽蓝建筑の座敷などでは、庭との距离が远いためにいよいよ光线が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、昙った日も、朝も、昼も、夕も、殆どそのほのじろさに変化がない。そして縦繁(たてしげ)の障子の桟の一とコマ毎に出来ている隈(くま)が、あたかも尘が溜まったように、永久に纸に沁み着いて动かないのかと讶(あや)しまれる。そう云う时、私はその梦のような明るさをいぶかりながら眼をしばだゝく。何か眼の前にもやもやとかげろうものがあって、视力を钝らせているように感ずる。それはそのほのじろい纸の反射が、床の间の浓い暗を追い払うには力が足らず、却って暗に弾ね返されながら、明暗の区别のつかぬ昏迷の世界を现じつゝあるからである。诸君はそう云う座敷へ这入った时に、その部屋にたゞようている光线が普通の光线とは违うような、それが特に有难味のある重々しいもののような気持がしたことはないであろうか。或はまた、その部屋にいると时间の経过が分らなくなってしまい、知らぬ间に年月が流れて、出て来た时は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一种の怖れを抱いたことはないであろうか。


                IP属地:广东9楼2013-08-09 20:07
                回复
                  2025-05-31 16:54:37
                  广告

                  〇年寄りの愚痴
                  この间何かの雑志か新闻で英吉利(イギリス)のお婆さんたちが愚痴をこぼしている记事を読んだら、自分たちが若い时分には年寄りを大切にして労(いた)わってやったのに、今の娘たちは一向われわれを构ってくれない、老人と云うと薄汚いもののように思って傍へも寄りつかない、昔と今とは若い者の気风が大変违ったと叹いているので、何処の国でも老人は同じようなことを云うものだと感心したが、人间は年を取るに従い、何事に依らず今よりは昔の方がよかったと思い込むものであるらしい。で、百年前の老人は二百年前の时代を慕い、二百年前の老人は三百年前の时代を慕い、いつの时代にも现状に満足することはない訳だが、别して最近は文化の歩みが急激である上に、我が国はまた特殊な事情があるので、维新以来の変迁はそれ以前の三百年五百年にも当るであろう。などという私が、やはり老人の口真似をする年配になったのがおかしいが、しかし现代の文化设备が専ら若い者に烦びてだんだん老人に不亲切な时代を作りつゝあることは确かなように思われる。早い话が、街头の十字路を号令で横切るようになっては、もう老人は安心して町へ出ることが出来ない。自动车で乗り廻せる身分の者はいゝけれども、私などでも、たまに大阪へ出ると、此方侧から向う侧へ渡るのに浑身の神経を紧张させる。ゴーストップの信号にしてからが、辻の真ん中にあるのは见よいが、思いがけない横っちょの空に青や赤の电灯が明灭するのは、中々に见つけ出しにくいし、广い辻だと、侧面の信号を正面の信号と见违えたりする。京都に交通巡査が立つようになってはもうおしまいだとつくづくそう思ったことがあったが、今日纯日本风の町の情趣は、西宫、堺、和歌山、福山、あの程度の都市へ行かなければ味わわれない。食べる物でも、大都会では老人の口に合うようなものを捜し出すのに骨が折れる。先だっても新闻记者が来て何か変った旨い料理の话をしろと云うから、吉野の山间僻地の人が食べる柿の叶鮨と云うものの制法を语った。ついでにこゝで披露しておくが、米一升に付酒一合の割りで饭を焚く。酒は釜が喷いて来た时に入れる。さて饭がムレたら完全に冷えるまで冷ました后に手に塩をつけて固く握る。この际手に少しでも水気があってはいけない。塩ばかりで握るのが秘诀だ。それから别に鲑のアラマキを薄く切り、それを饭の上に载せて、その上から柿の叶の表を内侧にして包む。柿の叶も鲑もあらかじめ乾いたふきんで十分に水気を拭き取っておく。それが出来たら、鮨桶でも饭柜でもいゝ、中をカラカラに乾かしておいて、小口から隙间のないように鮨を诘め、押盖(おしぶた)を置いて渍物石ぐらいな重石(おもし)を载せる。今夜渍けたら翌朝あたりからたべることが出来、その日一日が最も美味で、二三日は食べられる。食べる时にちょっと蓼の叶で酢を振りかけるのである。吉野へ游びに行った友人があまり旨いので作り方を教わって来て伝授してくれたのだが、柿の木とアラマキさえあれば何処でも拵えられる。水気を绝対になくすることと饭を完全に冷ますことさえ忘れなければいゝので、试しに家で作ってみると、なるほどうまい。鲑の脂と塩気とがいゝ塩梅に饭に渗み込んで、鲑は却って生身(なまみ)のように柔かくなっている工合が何とも云えない。东京の握り鮨とは格别な味で、私などにはこの方が口に合うので、今年の夏はこればかり食べて暮らした。それにつけてもこんな塩鲑の食べかたもあったのかと、物资に乏しい山家の人の発明に感心したが、そう云ういろいろの郷土の料理を闻いてみると、现代では都会の人より田舎の人の味覚の方がよっぽど确かで、或る意味でわれわれの想像も及ばぬ赘沢をしている。そこで老人は追い追い都会に见切りをつけて田舎へ隠栖するのもあるが、田舎の町も铃兰灯などが取り附けられて、年々京都のようになるので、そう安心している訳には行かない。今に文明が一段と进んだら、交通机関は空中や地下へ移って町の路面は一と昔前の静かさに复(かえ)ると云う说もあるが、いずれその时分にはまた新しい老人いじめの设备が生れることは分りきっている。结局年寄りは引っ込んでいると云うことになるので、自分の家にちゞこまって手料理を肴に晩酌を倾けながら、ラジオでも闻いているより外に所在がなくなる。老人ばかりがこんな叱(こ)言を云うのかと思うと、満更そうでもないとみえて、顷来大阪朝日の天声人诸子は、府の役人が箕面(みのお)公园にドライヴウェーを作ろうとして滥(みだ)りに森林を伐り开き、山を浅くしてしまうのを嗤っているが、あれを読んで私は聊(いささ)か意を强うした。奥深い山中の木の下暗をさえ夺ってしまうのは、あまりと云えば心なき业である。この调子だと、奈良でも、京都大阪の郊外でも、名所と云う名所は大众的になる代りに、だんだんそう云う风にして丸坊主にされるのであろう。が、要するにこれも愚痴の一种で、私にしても今の时势の有难いことは方々承知しているし、今更何と云ったところで、既に日本が西洋文化の线に沿うて歩み出した以上、老人などは置き去りにして勇往迈进するより外に仕方がないが、でもわれわれの皮肤の色が変らない限り、われわれにだけ课せられた损は永久に背负って行くものと覚悟しなければならぬ。尤も私がこう云うことを书いた趣意は、何等かの方面、たとえば文学艺术等にその损を补う道が残されていはしまいかと思うからである。私は、われわれが既に失いつゝある阴翳の世界を、せめて文学の领域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐(のき)を深くし、壁を暗くし、见え过ぎるものを暗に押し込め、无用の室内装饰を剥ぎ取ってみたい。それも轩并みとは云わない、一轩ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、试しに电灯を消してみることだ。


                  IP属地:广东14楼2013-08-09 20:35
                  回复
                    哎,我前两天找日本唯美主义作家的时候就看了谷崎的阴翳礼赞,建筑门外汉表示颇有所得。


                    IP属地:浙江15楼2013-08-09 21:44
                    收起回复