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大友左卫门督义镇公家纹图鉴资料

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一楼给瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士


1楼2013-04-09 09:16回复
     豊后の戦国大名として、北九州一帯をその势力圏とした大友氏は、源頼朝の庶子を祖とする所伝が伝承されてきた。しかし、最近では大友氏の初代能直は古庄(近藤)能成の子で、中原亲能の养子になったのだという说が有力になっている。中原亲能の养子となった能直が中原氏を名乗らなかったのは、すでに相模国大友郷を所领として、その土地の名をとって大友氏を名乗っていたからだという。
     能直は頼朝から豊后国の守护职を与えられ、以来世袭することになった。もっとも、豊后に移住するようになったのは三代亲泰のときからである。その后、亲时-贞能-贞宗と続いた。その间に、亲秀の弟から诧间氏・一万田氏・鹰尾氏・田原氏、 頼泰の弟から、戸次氏・木付氏、贞亲の弟から入田氏といった庶子家が分かれている。これらが、室町・戦国期、大友宗家の有力家臣化していったわけである。
     氏泰のとき、足利尊氏に従い、豊后のほか、豊前・筑后の守护职を得、北九州きっての守护大名になった。
     戦国期、义长・义鉴・义镇の三代で、戦国大名としての成长を遂げ、萨摩の岛津氏、肥前の竜造寺氏と九州を三分する势いであった。なかでも大友氏の全盛を筑いたのは义镇で、豊后.豊前・筑后・筑前・肥后・肥前の六ケ国と伊予・日向の半国に大名领国制を展开した。
     义镇は入道名の宗麟の方が知られている。有马晴信・大村纯忠とならぶキリシタン大名でもあった。天正六年、豊后より南下の军を起こしたが、日向の高城(耳川合戦)で岛津氏と戦い败れ、大友氏は守势に立たされることになった。そして天正十三年、筑后において龙造寺・岛津両军の挟み撃ちにあって大友军は败北した。翌十四年、岛津氏は大友氏の本拠豊后に突入した。大友军は岛津氏の全面攻撃をささえきれず、豊后は岛津氏の支配下に入った。
     その子吉统は秀吉に属した。しかし、朝鲜の役での失态をせめられて、庶领は没収され、わずかに徳川旗本として家名を保った。


    3楼2013-04-09 09:17
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