原始的欲求の行く末
聴覚の记忆
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tsuruta 自分の耳が人とは违う、と感じたのはいつ顷からですか?
sakamoto 聴覚の记忆で一番最初にあるのは、通っていた幼稚园で音楽をやっていて、小学校に入った时にそのままやめてしまうのはもったいないので町のピアノの先生の所にみんなで通い始めたんだよね。そこで聴音の练习があったの。ピアノである音を奏でて「この音を忆えておいてね」と言われ、その後わからなくなるように他の音をいろいろ弾く。そして、その後でまだ最初の音を忆えているかテストをする。その时に「なんでこんな简単な事をやっているんだろう。」と不思议で质问の意味がわからなかった。でも、确かに他の子はみんな答えられないんだよね。仆にとっては、例えば猫の絵を见せられて、その後に何枚か他の动物の絵を见せられて「さあ、猫はどれでしょう?」と言われているような感じに过ぎなかった。
t 例えば町中などを歩いていると、音はどのように闻こえるのですか?
s あまり音を意识し过ぎていると発狂しそうになるので、なるべく遮断するように歩いているかもしれない。パーテイー効果と言うのがあるのだけれど、例えばパーテイー会场で、普通ならば隣の人の声が一番物理的によく闻こえるわけだけど、人间の脳って必要のない音を遮断して闻きたい音を拾える能力があるのね、だから仆の场合も情报量が多くなり过ぎないように音を选択しているんだと思う。でも、そうやって音を选択しすぎているのも问题で自分の脳が物事に対して强力なフィルターをかけているというのは善し悪しでしょ???自分の関心のないことは闻いていなくて、自分の意识とかセンスとか体质とかで切り取られてしまっちゃうわけだから。もし100%耳を开いていたとしたらその中に必要な情报があったかもしれない。それは世界を见ていないということになるのかもしれないからそれはそれで良くないのかも知れないね。だからやっぱり耳を开くようにしておかないといけないのかもしれない。作曲家というのは、ある时期、その自动的にかかってしまうフィルターを意识的にはずす训练をしたりするんだよね。一番いいのは通勤通学途中の电车の中とかで闻こえてくる音を同时に闻いて识别出来るようにしていく。20种类位は拾えるようになるかな?人は一定のリズムで刻まれている音に対してはすぐに耳が惯れてしまい闻こえなくなってしまう。例えば、时计の秒针の音やエアコンの音とか・・・。たぶんそれは哺乳类のDNAの中に组み込まれている装置で、数分间同じリズムで刻まれている音に対しては危険がない、と判断するのかもしれない。ところが瞑想の修行を积んだようなお坊さんというのは、脳波を计ってみるとそういう音もずっと闻いているんだって。耳が开いているんだね。矛盾しているけど、一つの事に集中しながら、开いている。
t 私は瞑想すると无音になるんだと思っていました。
s 本当にあった话かどうかわからないけど、宫本武蔵が决闘の时に8时间相手と向き合っていたというエピソードがあるでしょ?その8时间ってある种の瞑想状态にあって、どんな変化も见逃すまいと全方位に感覚は开いているんだけど、でも一点に集中している、それと似ているのかもしれないね。
t 年をとるということと精神の解放具合はある意味比例しているようにも思えるのですけれど、年とともに拾える音が変わってきたと言うことはありますか?
s これもほ乳类のDNAの中に组み込まれていることなんだと思うけど、以前に闻いたことがある音に関しては注意を払わなくなるんだよね。さっき话ていた时计の秒针やエアコンの音が闻こえなくなってくるのと一绪だと思うんだけど、闻いたことのある音に対しては惯れていってしまうから年とともに拾える音は少なくなっているかもしれない。新鲜な音が减ってくるよね。
t 例えばバルセロナ・オリンピックで指挥をしていた时と「LIFE」で指挥をしていた时とではオーケストラの音の闻こえ方は违っていますか?
s それはどれだけ他のことに気を使っているかという、他との兼ね合いによって违っていて、指挥をする事自体になれてくれば余裕が出てくるからもっと闻こええるようになってくる。
t 重心がさがってくると余计なものに気を取られなくなり、同时にいろいろなものが见渡せるようになってくると言うことですね。
s そうだね。
t オーケストラの作曲をする时は中心になるメロデイーラインを决めてから重ねていくように他の音を决めていくのですか?それとも一小节分一変に音が鸣っているのですか?
s ウーン、両方かもしれないな。重なった状态とバラバラのパーツを同时に认识しているんだよね。重なった状态を想像出来ないと部分も出てこない。例えばド・ミ・ソという3つの音が同时に鸣ってハーモニーになっていくという事がわかっていないと出来ない。そういうことがもっと复雑になったものだから全体の响きが想像できて初めて、この音はバイオリンにやらせようとかフルートにやらせよう、というふうになっていく。
t 机织りと一绪なんですね。模様が见えていないと织れない。
s そうそう。何でもそうだよね。
聴覚の记忆
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tsuruta 自分の耳が人とは违う、と感じたのはいつ顷からですか?
sakamoto 聴覚の记忆で一番最初にあるのは、通っていた幼稚园で音楽をやっていて、小学校に入った时にそのままやめてしまうのはもったいないので町のピアノの先生の所にみんなで通い始めたんだよね。そこで聴音の练习があったの。ピアノである音を奏でて「この音を忆えておいてね」と言われ、その後わからなくなるように他の音をいろいろ弾く。そして、その後でまだ最初の音を忆えているかテストをする。その时に「なんでこんな简単な事をやっているんだろう。」と不思议で质问の意味がわからなかった。でも、确かに他の子はみんな答えられないんだよね。仆にとっては、例えば猫の絵を见せられて、その後に何枚か他の动物の絵を见せられて「さあ、猫はどれでしょう?」と言われているような感じに过ぎなかった。
t 例えば町中などを歩いていると、音はどのように闻こえるのですか?
s あまり音を意识し过ぎていると発狂しそうになるので、なるべく遮断するように歩いているかもしれない。パーテイー効果と言うのがあるのだけれど、例えばパーテイー会场で、普通ならば隣の人の声が一番物理的によく闻こえるわけだけど、人间の脳って必要のない音を遮断して闻きたい音を拾える能力があるのね、だから仆の场合も情报量が多くなり过ぎないように音を选択しているんだと思う。でも、そうやって音を选択しすぎているのも问题で自分の脳が物事に対して强力なフィルターをかけているというのは善し悪しでしょ???自分の関心のないことは闻いていなくて、自分の意识とかセンスとか体质とかで切り取られてしまっちゃうわけだから。もし100%耳を开いていたとしたらその中に必要な情报があったかもしれない。それは世界を见ていないということになるのかもしれないからそれはそれで良くないのかも知れないね。だからやっぱり耳を开くようにしておかないといけないのかもしれない。作曲家というのは、ある时期、その自动的にかかってしまうフィルターを意识的にはずす训练をしたりするんだよね。一番いいのは通勤通学途中の电车の中とかで闻こえてくる音を同时に闻いて识别出来るようにしていく。20种类位は拾えるようになるかな?人は一定のリズムで刻まれている音に対してはすぐに耳が惯れてしまい闻こえなくなってしまう。例えば、时计の秒针の音やエアコンの音とか・・・。たぶんそれは哺乳类のDNAの中に组み込まれている装置で、数分间同じリズムで刻まれている音に対しては危険がない、と判断するのかもしれない。ところが瞑想の修行を积んだようなお坊さんというのは、脳波を计ってみるとそういう音もずっと闻いているんだって。耳が开いているんだね。矛盾しているけど、一つの事に集中しながら、开いている。
t 私は瞑想すると无音になるんだと思っていました。
s 本当にあった话かどうかわからないけど、宫本武蔵が决闘の时に8时间相手と向き合っていたというエピソードがあるでしょ?その8时间ってある种の瞑想状态にあって、どんな変化も见逃すまいと全方位に感覚は开いているんだけど、でも一点に集中している、それと似ているのかもしれないね。
t 年をとるということと精神の解放具合はある意味比例しているようにも思えるのですけれど、年とともに拾える音が変わってきたと言うことはありますか?
s これもほ乳类のDNAの中に组み込まれていることなんだと思うけど、以前に闻いたことがある音に関しては注意を払わなくなるんだよね。さっき话ていた时计の秒针やエアコンの音が闻こえなくなってくるのと一绪だと思うんだけど、闻いたことのある音に対しては惯れていってしまうから年とともに拾える音は少なくなっているかもしれない。新鲜な音が减ってくるよね。
t 例えばバルセロナ・オリンピックで指挥をしていた时と「LIFE」で指挥をしていた时とではオーケストラの音の闻こえ方は违っていますか?
s それはどれだけ他のことに気を使っているかという、他との兼ね合いによって违っていて、指挥をする事自体になれてくれば余裕が出てくるからもっと闻こええるようになってくる。
t 重心がさがってくると余计なものに気を取られなくなり、同时にいろいろなものが见渡せるようになってくると言うことですね。
s そうだね。
t オーケストラの作曲をする时は中心になるメロデイーラインを决めてから重ねていくように他の音を决めていくのですか?それとも一小节分一変に音が鸣っているのですか?
s ウーン、両方かもしれないな。重なった状态とバラバラのパーツを同时に认识しているんだよね。重なった状态を想像出来ないと部分も出てこない。例えばド・ミ・ソという3つの音が同时に鸣ってハーモニーになっていくという事がわかっていないと出来ない。そういうことがもっと复雑になったものだから全体の响きが想像できて初めて、この音はバイオリンにやらせようとかフルートにやらせよう、というふうになっていく。
t 机织りと一绪なんですね。模様が见えていないと织れない。
s そうそう。何でもそうだよね。