October 05, 2004
LOVE & PEACE
“戦争反対”、“平和主义”。そんな言叶がとどかなくなった世界。
とどく言叶を一绪に探してみませんか?
いつもお世话になっている「爱のまぜご饭」さまに伺ったら、
本日4日TBS「筑紫哲也 ニュース23」にて
坂本龙一、细野晴臣、高桥幸宏が
「WAR AND PEACE」を生演奏
との情报キャッチ! おかげさまで间に合いました。
すっごく良かった~~~。ありがとうございます!
こういうのって、やっぱり运とかご縁みたいです。大感谢 m(__)m
そして、番组の中でわたしにいちばん响いたのは、「教授」(坂本龙一)の言叶でした。
(以下、わたしの理解した范畴での要约)
「たとえば爱なんて言叶はあまりに大量消费されてしまって、なんだかとても胡散臭く感じられることが多いのではないだろうか。また平和という言叶も同じように、その言叶を発しただけで拒否反応を起こして耳をふさいでしまう人も多いに违いない。だからこそ、平和という言叶、その意味するところをきちんと伝わる言叶として伝えていくためには、よくよく考えて言叶を练って発信していかなければならないと思っている」
みたいなかんじかと。
うわぁ~~~。これはまさにおっしゃるとおりじゃないの?
あまり深く吟味せずに使われる「爱」や「平和」という言叶はなんだか薄っぺらく感じられます。すでにそうした言叶には、べったりと张り付いてしまった先入観とか、歴史的な背景とか、それぞれの人にとっての个别的な意味などがありますから、そういうものをあれこれ斟酌した上でさらにそこに自分なりの背景とか意味を含めて使わないと、とてもじゃないけど広く人に伝わる言叶としての力を持つことはムズカシイのではないかと思うのです。
相手のことはもちろん自分のことでさえ、すべて理解したり受け入れたりするのはほとんど不可能ではないでしょうか。だからわからない部分があるのはあたりまえだし、それぞれ违って异なっているのが当たり前で、それをすべて共有することは出来ないけれど、そんなの别に悲しんだり忧うべきことでもないはず。その上で、きっと共有できる部分を作りたいと、そんな姿势でなにかを発信するしかないと思うしだいです。
个人的にはたぶん、先日、「过程と结论+α」で、「ニューエイジ系思想の言ってることはわかるけど、そのまま表面だけを无批判に取り入れて语るようなことはしたくない」って、ごちゃごちゃと悩んでいたことへの答えになるんだろうなぁ~~~、という発见もありまして。
いやはや。ほんとにいい体験でした。よかった。
そして、ずいぶん白髪だらけになったYMOの御三方を拝めたのも良かった(笑)
※ 以下、ここから派生した雑文。完全なる覚书ですので、、、ご容赦ください。
最近のわたしの兴味のひとつは、「表现が治愈力を持つのはなぜか?」というテーマでございます。(また、おりおりこれもネタにするつもりです)そしてちょうど今日はそれに関する话を闻いてきたところだったので、きょうの放送を见たのは、あまりにどんぴしゃなタイミングでありました。
きょう话していた方は、前提としてまず「生きている限り、周囲とのつながりは重要だし、人はみな何らかの形で周囲(人であれ环境であれ)とのつながりを希求している」ということを挙げていました。
おそらく、たぶん、、、
こうやって少なからぬ时间と労力をBLOGに费やしている人间にとっては(笑)、その前提はかなりの部分で実感として捉えられるのではないでしょうかしら?
だから、「わかって!わかって!」と行动化したり、言叶でそれを伝えたり、言叶以外の视覚や聴覚に诉えるような手段を用いたり、ただただ态度で示したり(シアワセなら态度で示そうよ! ・・・)みんななんらかの形で「自己表现」をしているのだと。
まぁ、そうですよね。うまく机能している自己表现もあれば、自爆したり自己充足しているだけの自己表现もあるとは言えると思いますが。
ただし、どんなに自己表现したところで、そのすべてを完全に谁かと共有することはできない。そういう限界を认识することがまず必要だし、その限界をよくわかったうえでそれでも表现して、一部分でも共有できることがあれば、それはじゅうぶんに机能している自己表现だといえるだろう。
ふむふむ。。。 これは実は纯然たる治疗の话についてなんですけど、、、わたしはどうも闻いている最中からBLOGのことばかりが头に浮かんできておりました。
でも、そんなに外れた连想ではなかったと思うのですね。なぜ、多くの人がBLOGにハマったかと言えば(个人が趣味でやってる场合ね)、やっぱりそれが身の丈にあった自己表现ツール(别に自分のことを书いてなくったって、やっぱりその人にとっては表现だろうし)だったからじゃないかと思うのです。
他所でコメント书き込むときも、ここにコメントいただくときも、もちろんお互いにすべてを理解してるわけじゃないけど、その一部でもなにか自分に响くことがあるからこそ、やりとりしたい!という気持ちになるわけでして。违うもの同士で、あぁこれはわかる!とか、えぇっ?それはぜんぜん判らない! なんてやりとりしてるのはただただ纯粋に楽しいですもの。(だからこんな夜中までこんなもん书いたりして。。。)
日常で颜を合わせている人だと、妙に「わかってる。知ってる」という思い込みができやすいですが、こうやってネット上でいろいろな方と接すると、「わからなくたって仕方ない」という前提からスタートするせいか、変な先入観や思い込みなしにお互いの「表现」を味わうことが出来るようにも感じております。
で、、、自己表现の话でしたっけ。きょう闻いてきた「表现」の话はけっこう独特だけどおもしろかったので、もう少しまとまったらまた书いてみる所存にて。
LOVE & PEACE
“戦争反対”、“平和主义”。そんな言叶がとどかなくなった世界。
とどく言叶を一绪に探してみませんか?
いつもお世话になっている「爱のまぜご饭」さまに伺ったら、
本日4日TBS「筑紫哲也 ニュース23」にて
坂本龙一、细野晴臣、高桥幸宏が
「WAR AND PEACE」を生演奏
との情报キャッチ! おかげさまで间に合いました。
すっごく良かった~~~。ありがとうございます!
こういうのって、やっぱり运とかご縁みたいです。大感谢 m(__)m
そして、番组の中でわたしにいちばん响いたのは、「教授」(坂本龙一)の言叶でした。
(以下、わたしの理解した范畴での要约)
「たとえば爱なんて言叶はあまりに大量消费されてしまって、なんだかとても胡散臭く感じられることが多いのではないだろうか。また平和という言叶も同じように、その言叶を発しただけで拒否反応を起こして耳をふさいでしまう人も多いに违いない。だからこそ、平和という言叶、その意味するところをきちんと伝わる言叶として伝えていくためには、よくよく考えて言叶を练って発信していかなければならないと思っている」
みたいなかんじかと。
うわぁ~~~。これはまさにおっしゃるとおりじゃないの?
あまり深く吟味せずに使われる「爱」や「平和」という言叶はなんだか薄っぺらく感じられます。すでにそうした言叶には、べったりと张り付いてしまった先入観とか、歴史的な背景とか、それぞれの人にとっての个别的な意味などがありますから、そういうものをあれこれ斟酌した上でさらにそこに自分なりの背景とか意味を含めて使わないと、とてもじゃないけど広く人に伝わる言叶としての力を持つことはムズカシイのではないかと思うのです。
相手のことはもちろん自分のことでさえ、すべて理解したり受け入れたりするのはほとんど不可能ではないでしょうか。だからわからない部分があるのはあたりまえだし、それぞれ违って异なっているのが当たり前で、それをすべて共有することは出来ないけれど、そんなの别に悲しんだり忧うべきことでもないはず。その上で、きっと共有できる部分を作りたいと、そんな姿势でなにかを発信するしかないと思うしだいです。
个人的にはたぶん、先日、「过程と结论+α」で、「ニューエイジ系思想の言ってることはわかるけど、そのまま表面だけを无批判に取り入れて语るようなことはしたくない」って、ごちゃごちゃと悩んでいたことへの答えになるんだろうなぁ~~~、という発见もありまして。
いやはや。ほんとにいい体験でした。よかった。
そして、ずいぶん白髪だらけになったYMOの御三方を拝めたのも良かった(笑)
※ 以下、ここから派生した雑文。完全なる覚书ですので、、、ご容赦ください。
最近のわたしの兴味のひとつは、「表现が治愈力を持つのはなぜか?」というテーマでございます。(また、おりおりこれもネタにするつもりです)そしてちょうど今日はそれに関する话を闻いてきたところだったので、きょうの放送を见たのは、あまりにどんぴしゃなタイミングでありました。
きょう话していた方は、前提としてまず「生きている限り、周囲とのつながりは重要だし、人はみな何らかの形で周囲(人であれ环境であれ)とのつながりを希求している」ということを挙げていました。
おそらく、たぶん、、、
こうやって少なからぬ时间と労力をBLOGに费やしている人间にとっては(笑)、その前提はかなりの部分で実感として捉えられるのではないでしょうかしら?
だから、「わかって!わかって!」と行动化したり、言叶でそれを伝えたり、言叶以外の视覚や聴覚に诉えるような手段を用いたり、ただただ态度で示したり(シアワセなら态度で示そうよ! ・・・)みんななんらかの形で「自己表现」をしているのだと。
まぁ、そうですよね。うまく机能している自己表现もあれば、自爆したり自己充足しているだけの自己表现もあるとは言えると思いますが。
ただし、どんなに自己表现したところで、そのすべてを完全に谁かと共有することはできない。そういう限界を认识することがまず必要だし、その限界をよくわかったうえでそれでも表现して、一部分でも共有できることがあれば、それはじゅうぶんに机能している自己表现だといえるだろう。
ふむふむ。。。 これは実は纯然たる治疗の话についてなんですけど、、、わたしはどうも闻いている最中からBLOGのことばかりが头に浮かんできておりました。
でも、そんなに外れた连想ではなかったと思うのですね。なぜ、多くの人がBLOGにハマったかと言えば(个人が趣味でやってる场合ね)、やっぱりそれが身の丈にあった自己表现ツール(别に自分のことを书いてなくったって、やっぱりその人にとっては表现だろうし)だったからじゃないかと思うのです。
他所でコメント书き込むときも、ここにコメントいただくときも、もちろんお互いにすべてを理解してるわけじゃないけど、その一部でもなにか自分に响くことがあるからこそ、やりとりしたい!という気持ちになるわけでして。违うもの同士で、あぁこれはわかる!とか、えぇっ?それはぜんぜん判らない! なんてやりとりしてるのはただただ纯粋に楽しいですもの。(だからこんな夜中までこんなもん书いたりして。。。)
日常で颜を合わせている人だと、妙に「わかってる。知ってる」という思い込みができやすいですが、こうやってネット上でいろいろな方と接すると、「わからなくたって仕方ない」という前提からスタートするせいか、変な先入観や思い込みなしにお互いの「表现」を味わうことが出来るようにも感じております。
で、、、自己表现の话でしたっけ。きょう闻いてきた「表现」の话はけっこう独特だけどおもしろかったので、もう少しまとまったらまた书いてみる所存にて。