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【-点-】はじめに 文/宇多田ヒカル
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一楼给韩度~
有人发过吗有人发过吗
似乎没有看到有
所以我先发上来咯~
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来自光妹《点》
将按照以下小节来发
PS.没有翻译,我的能力只能够把它抄上来,我也期待着,有能力者能把它翻译出来,特别是最后几节。
再PS,因为是手打的,所以错误疏漏难免,大家看到有可能错误的地方多多指正。
2025-07-01 02:29:58
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前言
はじめに
14才くらいからインタビューを受けるようになって気が付いた
——「今まで自分のことを考えたことがあまり无かったんだな」。
人と话をするのは脳が刺激されて好きだし、赤の他人の质问に答えるうちに、それまで知らなかった自分が见えてくることもある。でも、10年前の自分がインタビューで何を言ったかなんて全然覚えてない。その场その场で正反対のこと言ったり、かっこつけたり、テンション高すぎたり、嘘ついたりしてると思う。
でもいつでも本気。
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0~8才
基本ができるまで
泣いたって
何も変わらないって言われるけど
谁だって
そんなつもりで泣くんじゃないよね
おぎゃー!
引っ越し、引っ越し、だくさん引っ越し、空港、飞行机、飞行机の中楽しい、道路のわきでおしっこしなきゃいけなくて耻ずかしい、ハサミ使うのがうまいってほめられて嬉しい、鼻をかむと脳みそが全部出ちゃうって言われて信じてた、サンドイッチ噛んだら抜けそうだった乳歯がねじれて痛い、自分のバースデーパーティーで急に悲しくなってすみっこに座る、心配されて余计悲しい、大人の言い争い、大人の会话、大人の笑い声、ママ大好き、ママこわい、お父さん大好き、お父さん嘘つき、消えたい、テーブルの下にいると落ち着く、くやしい、ママのステージ衣装が家にある、鲜やかなマジェンタのドレス、金色のハイヒール、キラキラの大きな宝石、ディオールの赤い口红の味、ママの公演をステージのそでからずっと见てる、すごい音、光、暗、集中力、热、ママ泣いてるみたい、お客さんの方を向いてる、私の方は见てない——。
一绪に出かけた时に「藤圭子さんですよね?」と気付かれると母はいつもすごく困ったようだった。少し伤ついているように见えた。有名であることはいやなことにしか思えなかった。いろいろな目的の人がいつも私たちの周りにはたくさんいて、私はその人たちが嫌いだった。
お金や人间関系のトラブルが绝えなかった。
亲は普通の生活をしていなかったし、激情的で、世间からいつも异分子扱いされていた。娘の私からしても、なんて非常识な人たちなんだって理解に苦しむことが多かった。
夜、寝る前に、「明日から日本に帰ることにした」と告げられ、クラスメイトにお别れも言えないまま引っ越す、みたいなことが普通にあった。そんな亲に対して自分の无力さを思い知らされ続けた私は、おとなしくて头の良い子に育った。
トランプカードで神経衰弱、パズル、読书、お絵描き、空想ごっこ、ぬいぐるみと游ぶのが好きだった。
5才くらいまでは、ゲームに负けたりピアノがうまく弾けなかったりした时、根っからの负けず嫌いなために悔しくて悔しくてその度に泣いた记忆がある。それがだんだん、悔しい时も悲しい时も、泣かない子になった。母の前で泣くと、ひどく怒られたから。悲しくて泣いてるのは私なのに、なぜか彼女の方が伤ついて、泣いて、私を责めた。すると私は泣く気が失せた。泣くよりももっと深い悲しみを知った。彼女に悪気は无いんだ、って分かってしまう自分が、体の芯からひんやりしていくようで、こわかった。
それは子供にはとても辛い、母亲からの拒绝、というものだった。でも彼女にはそんなつもりはない。彼女は本当に纯粋で美しい人だ。私をとても爱してる。私が胜手に拒绝された気になってるだけかもしれない。
そして父は、「弱音は吐かない、甘えは禁物、愚痴などもっての他」という武家の名残を感じさせるような人だった。
私はどうしたらいいんだろう。文句なんか言える立场ではない、こんなに恵まれた生活を送ってるのに…。
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亲の前ではもちろん、人前で决して泣かないことにした。惯れれば、音を立てずに泣くのは案外简単だった。ドアの开け闭めの际に音を立てないよう注意するのと同じだった。
*その随分先の话だけど、中学の部活(バスケットボール)で私の所属するチームは地区大会の决胜戦で负けることになる。チームメイトは泣いた。私は、一人でトイレに着替えに行って、そこで静かに泣いた。「ひかる、感じ悪いね、みんな泣いてるのに冗谈なんか言っちゃってさ、どっか行っちゃうし、冷たいよね」なんて阴口を叩かれた。一人だけ、「ひかる、あの时さ、トイレで泣いてたんじゃない?」って话しかけてくれた女の子がいた。私はその子を亲友に选んだ。
9才の时、怒りとか不満といった感情が完全になくなっていることに気付いた。
外界になにも求めなくなっていた。
(私の求める救済はそこにはないんじゃないかな…。)
その感じ始めると、外界の出来事にいちいち心を振り回されるのは时间とエネルギーの无駄にしか思えなかった。「间违ってる」と感じる他人の行动や世界のあり方を、理解しようとするのをやめた。「どうして?」なんて问うことは无意味に思えた。外の世界のことは、ただ「知る」だけでよかった。
自分の内侧の世界のほうが大事だった。そこには自由があった。想像と思考は无限で、最强だと思った。
うちに秘めた想いには、神圣なものが宿るようだった。
「谛め」という尸を苗床に、「愿い」と「祈り」という雑草が、どんどん私の心を覆い尽くしていった。绝望が深くなればなるほど、この雑草もたくましさを增すようで、摘んでも摘んでもまた生えてくる、やっかいなものだった。
でも「愿うこと」「祈ること」は、「求めること」と决定的に违う。それは「希望」と「期待」の违い。(前者は、してもいいことなんだ…っつうかどうしようもなくね?)と気付いた。それに、愿いと祈りをなくしたら私になにが残るだろう。人ではいられないだろう。
ならば雑草よ、好き放题に生えるがいいっ!
とにかくいろんなことを学びたい、吸収したい。楽しいことも怖いことも、良いことも悪いことも、成功も失败も、出会いも别れも、みんな私の世界を大きくする。同等の価値がある。私を豊かにするものを拒む理由はない。どんなことも受け入れられる。
——8才までに形成された、私の基本姿势です。
基本は、ぶち壊すために学ぶもの。何を基本とするかはさほど重要ではないと思う。どれも、一つのスタートの型。
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十代の始まり
破壊
母さんどうして
育てたものまで
自分で壊さなきゃならない日がくるの?
私は、外界に振り回されたくない、と言いながら自分の壳の中で必死にもがいてるだけだった。なんでも受け入れる、なんて言いながら、ただ现実を无视しようとしてた。
でも、初めは「壳」が必要だったんじゃないかな。
武术やスポーツなんかで「まず型から入る」って言うじゃん?そんな感じで「まず壳から入る」ことにしたんだと思う。
内と外の境界线を见つけて、自分の分泌物で纺いだ茧の内侧で、静かに成长する时间がほしい。私だけの、小さな部屋。私を振り回す大人も入ってこない、争いごとを持ち込まれない、私だけの小さな、家…。
私は早く成长したくて、早く亲に追いつきたくて、その小さな家を内侧から一生悬命支えながら、努力した。
外はあいかわらず、岚だった。
私の「家」は何度も吹き飞ばされた。
童话「三匹のこぶた」では、一番目のこぶたがわらの家を狼に吹き飞ばされ、二番目のこぶたが木の枝で作った家を吹き飞ばされ、三番目のこぶたが顽丈なレンガの家を建て狼を负かして、最后には三匹が仲良く狼を料理して食べてハッピーエンドとなる。
私は、こぶただった。そして、狼なんてどこにもいなかった。
外の世界を冷ややかな眼で见つめたり见放したり、狼の幻影に怯えて顽丈な家に隠れたり、その场しのぎの気休めにしかならない伪の安心の虚しさにすがる必要も、ない。そんなことしなくていい。
安心は他人から与えられるモノじゃない。种が実を结ぶまでゆっくり、大切に育んで、自分で自分に分け与えるモノだったのか~。ふー。浅瀬で溺れてたんだな私。
それに気付くまでの过去の出来事全てにかたっぱしから感谢した。世界の全てが有り难い、尊い。私も、尊い世界の一部。だから、安心。窓を开けて爽やかな风を肌に感じてるみたい。いつまでもこの窓は开けておこう、いつもこの风を感じていたい。
そんな雰囲気で始まった十代。
25才の今は、もう内と外を区别してない。どこにも家はない。私が私の家。世界が私の家。
あとは、その间のお话。
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15才
デビュー
谁かの为じゃなく
自分の为にだけ
歌える歌があるなら
私はそんなの覚えたくない
亲はいつも私をスタジオに连れて行った。小学一年生の顷からスタジオで宿题をして、スタジオでご饭を食べて、スタジオのソファーで寝た。今でもスタジオはどこよりも落ち着く场所。いつ、どこの国でも同じような内装と照明と乾いた空気。静かな湖みたい。スタジオは平和。
「光、ちょっとここ歌ってくれない?」って頼まれると、イヤだったけど歌った。自分の声がすごく変な気がして、耻ずかしかった。でも音楽はどんどん好きになってった。音楽をたくさん聴いた。
ある日、自分で歌作ってみなよ、って言われて、「そんなのやり方わかんねーよ!」と思いつつ、好きな曲をいくつか研究して、现代のポップミュージックがだいたいこういう构成で、こう展开して…みたいなことが分かってきた。学校の勉强よりも难しくて面白かった。どうにか一曲できた。10才。”I’ll Be Stronger”。イエーイ。
おそるおそる亲に聴かせると、「良いじゃん!」と褒めてくれた。
私が発信者となり、亲は受信者となった。それは禁忌的な快感だった。初めて私の诉えが亲に届いた気がした。しかも、それは音楽にさりげなく隠されていた。ニンジン嫌いの子供をだまして、巧みにニンジンを隠した料理を食べさせたような、密かな胜利だった。
それはレコーディングを経て、12インチという形あるものになった。
どういうわけかアメリカのEMIとアルバムを作ることになった。今思うと、歌手になりたいなんて考えたこともなかった私がなんでそんなこと引きうけたんだ、って不思议だけど、13才の私は何も考えずにどんどん歌を书いて、レコーディングした。「できない」って言いたくなかった。それに、亲ががんばってよりつけてきた话を断れなかった。
アルバムでけた。
そしたらなんかEMI USAなくなっちゃって、宙ぶらりんになってもうた。别になんとも思わなかった。なにも変わらなかった。
ただ、制作に関わった人间とお金やら権利やらのトラブルがいくつも起きて、社会勉强になった。愤りはなく、そういう人たちはそういう人たちなんだ、と思った。父も母も甘いな、とちょっと思った。
14才のある日、学校の帰りに、亲の仕事で都内のスタジオに寄った。そこでたまたま三宅彰という东芝EMI(当时)のプロデューサーの目にとまったらしいのだ。お、なんか中学生くらいの制服の女の子がいる、谁かなっ☆みたいな。
后日、私のバックグラウンドを知った三宅さんから、日本语の曲を作ってみない?との连络があり、またもや私は何も考えずに引きうけた。
そして记念すべき☆日本语曲第一号“Never Let Go”ができた。
で、スタジオでレコーディングする日がきた。14才のくそガキが生意気に歌入れをしきった。「今、地声で歌ったコーラスのとこ、裏声で重ねてみたいんだよね。バックボーカルとしてじゃなくて、シングルで、地声パートと対等のリードとして。じゃあ、はい、そこやりましょうか」とか。
これが三宅さん的に合格だったらしく、东芝EMIとアルバムを作ることになった。15才になった。大好きだった部活(バレーボール、バスケ、陆上)もやめて、放课后と周末は制作に费やした。歌手デビューの契约をしたなんて気付かなくて、ただ自分を试したいだけだった。なんだかオラ、わくわくしてきたぞ。
続いて出来上がった第二号と第三号を、一枚のシングル“Automatic/time will tell”としてリリースすることが决まった。
1998年12月9日の朝、いつも通り少し寝坊をしてあわてて学校へ向かった。
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最初の二年(パート1)
有名になる
バカにする人达はきっと
ただ淋しいだけ
私もそうだった
“Automatic/time will tell”がじわじわチャートを登っていった。
学校から帰るとネットでオリコンのデイリーランキングをチェックするのが楽しみになった。なんだか信じられなかった。嬉しかった。
学校の友达には歌手やラッパーを目指す子が多く、みんな盛り上がってくれた。デビューしたという実感は全くなかった。まだ电车で通学してた。
さて、アルバムの制作も佳境に入りましたよ。
游びたいな、と思うこともあったけど、学校の勉强が好きなように、仕事も好きだった。大人に囲まれて过ごすことには惯れてたし、むしろ学校にいるよりも仕事现场のほうが自分らしくいられる気がした。そこでは私は大人と対等の一个人だった。
大晦日の夜は“First Love”というバラードの歌入れをしてた。パーティー中の友达から「ひかるなにしてんの?!早くおいでよ!」的な电话がたくさんかかってきた。なんだかすごく远い世界に感じた。结局、スタジオで新年を迎えた。1999年だー。わーい。
そろそろアルバムタイトルを决めないと!ということでみんなで案の出し合いっこ。なんだかなあ。
「一枚目だし、“First Love”でよくない?」と提案してみた。思いの他、みんな賛同してくれた。
1999年3月10日、私のデビューアルバム“First Love”が発売された。
あっという间に大ヒットになって、大騒ぎになった。なんかすごかったなありゃ。いったいなんだったんだ。全国で売り切れて手に入らないとか、実は藤圭子の娘だった!とか、ワイドショーでも大きく取り上げられ始めた。あわわわ。
家から出るところ、学校を出るところ、いたるところを写真に撮られて周刊志に载るようになった。车に乗ってる时にとなりを走ってきた车から写真を撮られたこともあった。まじっすか?
电车通学もできなくなり、どこへ行くにもスタッフの车で送り迎えされるようになった。とても穷屈だった。
とにかく毎周周刊志に载った。昔の写真、プリクラ、友达が売ったとしか思えないものや、身近な人が记者に话したとしか思えない内容も、でたらめもあった。人间としての尊厳を踏みにじられるような気がした。あー有名人になってもうた。きつい。
仲の良い友达が记者からお金を渡されて、私にインタビューをさせるために记者を校内へ案内した时は、さすがに惊いた。彼女たちにさほど悪気はなかったんだろう。(こんなことにも惯れなきゃいけないんだ…。)
それは有名人である母を间近で见て育った私にも想像しえなかった重圧とストレスだった。
好奇の目で见られることは、とてつもなく怖かった。たくさんのナイフで刺されるような思いだった。16才の女の子には耐え难いものだった。デビューしたことを后悔した。
一度だけ母に「やめたい」ともらした时、「じゃあやめればぁ?」と言われた。さすが藤圭子だなオイ。まあそりゃそうだけどさ~。っつかもう手遅れじゃね?
で、昔からそうしてきたように、私は耐えることにした。逃げ场は无い。文句を言ってもふてくされても后悔してもしょうがない。たくましくならなきゃいけない。外の世界に振り回されたくない。自分の置かれてる状况は、なにも特别なものではない。
少しずつ、私は変わっていった。
自分が随分とつまらないプライドを持っていたことに気付かされた。つまらないプライドを伤つけられるのは、カッコ悪かった。人の目を気にすることは愚かだと分かっていながら、気にする自分がイヤだった。
己の未熟さと格闘するうちに、だんだん、ひどいことを言われても、误解されても、世间にカッコ悪いところを见られても、あまり気にならなくなった。それは全て一时のことだった。他人も、カッコ悪い自分も、许すよう努力した。许してしまえばこっちの胜ちだった。
どんどん心が広くなるようで、「これでいいんだ」と思った。
それまで约二年かかった。
2025-07-01 02:23:58
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最初の二年(パート2)
作词とは
ああ 花に名前を 星に愿いを
ああ 私にあなたを
ああ この窓辺に饰られていたのは
いつも置き手纸
同时期、家庭でも変化が起きていた。
私の仕事で父が忙しくなったのをきっかけに、しばらく安定していた亲の関系がまた荒れ始めた。だい~ぶ、荒れ始めた。
亲の离婚や再婚には惯れてたけど(彼らは今日までに6回そのセットを缲り返してる)、今回はちとわけが违った。17才の私はどちらに味方するか、选べる年齢になってた。父と母は、私にそれぞれの言い分を话した。あまりにも食い违う内容に、なにが本当でなにが嘘なのか分からなくなった。心が乱れた。
私は中立な立场であろうとした。それぞれに理由や感情があって、真実は一つではないと思った。とかなんとかクールなこと言っちゃってるけど、正直、できるだけ関わりたくなかった。なにより、争いごとを私の仕事场に持ち込まれるのがイヤだった。迷惑だった。
母が家を飞び出してから间もなく、私も家を出てホテル暮らしを始めた。
とまあ、そんな中、ちゃくちゃくと新しいアルバムの制作が进んでおりました。
セカンドアルバム“Distance”がファーストから大きく変化したのは、歌词だと思う。この顷から、「歌词を书く」という作业が自分にとってどういうものなのか、意识し始めたのであります。
20~30代くらいの人たちとばかり游ぶようになった。年上の恋人もできた。自分より年上の人たちとの交流や恋爱からは得るものが多かった。
人と会话をすることの面白さを知った。くだらない话でも、真剣な话でも、テンポの良いかけひきにはありったけの思考力と表现力、言语力、想像力、それに反応の早さが求められ、脳みそがフル回転した。やべーマジ楽しいんっすけど。
17年间、私の中でぼんやりふくらむばかりだった「価値観」や「哲学」が、人との会话によって明确に见えてきた。惊くほどに、言いたいことがたくさんあった。それまであまり意识しなかった自分の考えや世界観を、他人にも分かるように言叶にすると、なんだかすっきりした。
数学の证明を解けた时の満足感に似てた。
それは、歌词を书き终えた时の気分にも似てた。
デビュー以来、「歌词ってどうやって书くんですか?」ってよく闻かれるようになって、困った。そんなの考えたことないっつうか、なんとなく浮かんでくるっつうか…。
今でも一番良い答えかなあ、と思うのは、19才の时、ディレクターの冲田さんとの会话の中で言ったコレかも――「どうしようもないくらい络まってぐちゃぐちゃになったネックレスを、一生悬命ほどくような感じ」。
一见复雑に见えるものごとを、できるだけシンプルに表现する。
それは、どんな芸术表现にも通ずると思う。
「生きる」こともそんな感じなんじゃないかと思う。
浄化にも浓缩にも似たプロセス。切り舍てることを恐れては进まないプロセス。
ものごとの本质に近づこうとすればするほど、自意识というものが邪魔になる。自意识を消すためには、外の世界に全感覚を开かないといけない。
家の窓を全部开ける。ドアも开ける。えい、壁も壊しちゃえ。すると、空间はつながり、一つの空间になる。「自分」の境界线が消える。あらゆるものが无限に流れ込み、无限に解放されていく。
创造が始まる。
私にとって「歌词を书く」という作业は、自分の无意识の中に隠れてる答えを明るみにひっぱり出すきっかけを作ることだ。
自分のことがよくわからなくなったり、人生に悩んでもやもやした気持ちが溜まることもあるだろう。そんな行き场の无い不安やストレスを、游びまくったり酒饮みまくったり女游びしたり、カラオケで歌いまくったり、バッティグセンターで発散するのもいいけど、それらはその场しのぎの逃避でしかない。いくら体が疲れても、なんか疑问が残んない?
もやもやを振り払うたった一つの方法は、例えば、歌を创る、文章を书く、写真を撮る、絵を描く、といった创作活动なんじゃないか。それもまた逃避の一つであるけど、やみくもにエネルギーを无駄遣いするのとは大きく违う。
创作行为って不思议。ただのストレス発散とは违って、内なるプロセスなのに、自分とは别の、形あるものが残る。
なにかを残すために「创作」するんじゃない。「作品」は「创作」の副产物に过ぎない。
自分の作品を见てそう思う。
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韩度终于来和谐我了,没关系,偶不怕!!
下面这首是《日曜の朝》,但没有找到合适的MP3链接。
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这是文章末尾光妹的画,和光妹的签名的特写。
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