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【转】琉球国历史与人物绘卷

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琉球王国あけもどろ图 十五世纪 建国の三雄と册封使行列
中山王尚巴志和国相怀机




IP属地:上海1楼2012-03-07 17:29回复

    〈第二尚王统时代〉1470年~1879年 先岛诸岛・本岛南部
    名君尚真が筑いた黄金时代
    クーデターで王になった金丸は、名を尚円と改め、中国からも王として认められます。なので同じ尚姓ですが、尚円以降を第二尚王统といいます。尚円は王になったときすでに55歳で、7年后に亡くなっています。弟の尚宣威が后を継ぐはずでしたが、尚円の正室・宇喜也嘉(おぎやか)が策略を用いて若干13歳の息子・尚真を王位に就けたといいます。尚真は歴代王の中でも最长の50年近く在位し、その间に第二尚王统の坚牢な基盘を筑き、400年以上の长期政権を可能にした名君中の名君と呼ばれています。この时代に、オヤケアカハチの乱など八重山の反乱も平定し、先岛诸岛も首里王府に统治下に置きました。尚真は・刀狩り・各地の按司を首里に住まわせる・身分制度の明确化 などの政策で中央集権化を図り、芸术を奨励して文化国家・琉球を确立していきました。「円覚寺」「崇元寺」「玉陵」などの壮丽な建筑物が数多く建立されたのも尚真の时代です。この时代は琉球の黄金时代とも言われています。
    尚真の后も安定した时代が続きますが、7代目・尚宁が在位中のの1609年に、琉球は萨摩藩に制圧され、萨摩藩の支配地として扱われるようになります。
    絵巻に描かれているのは、先岛诸岛と本岛南部の远景などです。

    


    IP属地:上海5楼2012-03-07 17:32
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      バジル・ホールのの来琉
      19世纪初头、イギリス海军のバジル・ホール大佐が琉球にやってきます。バジル・ホールの目的は琉球の调査や测量で、滞在中に琉球人と交流したエピソード等を记录した本が、ヨーロッパでベストセラーになりました。バジル・ホールは「琉球の人々はいちじるしく文明化している。人々は无欲で、完全に満足しているように见える。」と记し、琉球を理想郷のように绍介しています。この本の影响で、ヨーロッパの人々の琉球への関心が高まったといえます。その后、オランダ・フランスなどからも琉球へ布教や调査のために使者がやってきました。
      絵巻に描かれているのは、本岛西岸の远景と、泊村、那覇、长虹堤などです。

      


      IP属地:上海7楼2012-03-07 17:32
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        新北风(ミーニシ)をとらえて船出する进贡船
        舷侧の目玉が特徴的な进贡船は、琉球と中国の间で长く続いた朝贡贸易には欠かせない存在でした。
        大きいものは50m以上になる大型船で、琉球にはこれを作る技术がなかったため中国から下赐(かし)されていました。
        10月顷に吹き始める北风に乗って中国に渡り、宝物を満载して戻ってくる进贡船は海洋贸易国家であった琉球の象徴ともいえます。
        しかし1876年にはその役目を终え、那覇港から最后の船出をする様子を描いた図です。画面右に见えるのは海中の出城・屋良座森城(やらざもりぐすく)です。

        


        IP属地:上海11楼2012-03-07 17:33
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          IP属地:上海13楼2012-03-07 17:34
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            高岭徳明(タカミネ トクメイ)亲方 医师 (1653~1738)
            17世纪中盘から18世纪前半にかけて活跃し、日本初の全身麻酔手术に成功した琉球の名医。
            昭和56年、当时の弘前大学助教授・松木明知氏は、日本最初の全身麻酔医手术は、1689年、琉球王国の医师、高岭徳明によって行われたと调査、発表し、医学界の注目をあびました。これまで日本初と言われた、1804年の纪州和歌山の医师、华冈青洲の手术よりさかのぼること115年前になります。
            幼少のころから语学の才能に秀でていた徳明は、総官という进贡船の事务职をつとめ、中国と琉球を往来するという生活を続けていました。
            当时、国王尚贞の孙・尚益は、生まれながらの欠唇の持ち主でした。
            徳明36才の时、福州で中国人医师・黄会友(こうかいゆう)が补唇治疗を行っている事が进贡使节の耳に入り、中国语を完璧に理解する徳明に、补唇の技术を取得することが命じられます。徳明は黄会友に恳愿して弟子入りを果たし、秘法と秘伝の巻物を授けられて帰国します。
            1689年11月に、尚益の手术をとり行いました。手术は大成功で、尚益の子供ですら伤迹に気付かなかったと言われています。
            『琉球王国 人物列伝』より抜粋

            


            IP属地:上海19楼2012-03-07 17:37
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              名护 亲方・程 顺则(ナゴ ウェーカタ・テイ ジュンソク)亲方(1663~1734)
              17世纪后半から18世纪前半にかけて活跃した、国际的な教育家。
              程顺则は唐名、名护亲方は拝领地の现・名护市を姓としたもので、亲方は役职名となります。
              程顺则は中国・福州に渡り、父・程泰祚が学んだ陈元辅(チンゲンポ)の弟子となり、おなじ福州の儒者・竺天植(ジクテンショク)にも教えを请います。顺则は、この二人の大学者に、その卓越した天质と学识、人格を认められ、师の书物にも优秀な门下生として记录されるほどでした。
              □六谕衍义(リクユエンギ)、指南広义の移入。琉球国内での出版…六谕衍义とは、清王朝が国民の道徳书として、皇帝の名で出版した书物です。のちに琉球国のみならず、日本全国に普及し、寺子屋などでも、これを修身の教科书として使用し国民の道徳観の形成につながりました。
              □琉球初の学校明伦堂(メイリンドウ)创设の提言…程顺则は久米村に人材育成の为の学校教育の必要性を感じ、明伦堂の建设を提言します。明伦堂は、日本各地に诞生する藩校の见本ともなりました。
              『琉球王国 人物列伝』より抜粋

              


              IP属地:上海20楼2012-03-07 17:37
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                玉城朝薫(タマグスク チョウクン)亲方 (1684~1734)
                17世纪后半から18世纪前半にかけて活跃した、芸术家
                现在、6つの国立剧场があります。そのうち「国立剧场おきなわ」は、组踊(クミオドリ)、琉球舞踊、 琉球音楽など上演するために作られました。とくに组踊は、琉球王朝文化の最高芸术と言われていますが、玉城朝薫という一人の天才的な芸术家によって、世に送り出されました。
                朝薫35才の时、国王尚敬は、朝薫の多彩な才能に目を付け、踊り奉行に任命します。朝薫は一年后に予定されている中国・册封使の招宴のため、琉球国の夸りをかけた芸术の创作を命じられます。
                朝薫は、琉球に伝わる话をもとに、日本の谣楽、能楽などの要素を取り入れた、琉球独自の芸术「组踊」を创作し、册封使を迎えて披露されました。その作品を観た人々は、あまりのすばらしさに感动し、涙を流したと言われています。
                その后、组踊は琉球王朝文化を代表する芸能へと育って行きます。とくに「执心钟入」はその代表作と言われています。
                组踊はシナリオとして完成されている文学评価が高いために、玉城朝薫を东洋のシェークスピアという研究者もいるほどです。
                『琉球王国 人物列伝』より抜粋

                


                IP属地:上海21楼2012-03-07 17:38
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                  羽地 朝秀(ハネジ チョウシュウ)摂政 (1617~1675)
                  琉球最初の歴史书を编纂し、国の在り方を示した政治家。
                  羽地朝秀の家は王家の血を引く首里士族の名门です。しかし朝秀が生まれる数年前に琉球は萨摩の侵入を受け、以后、王国のまま江戸幕府の支配下に置かれていました。财政は疲弊し、国家としての主体的な生き方と希望を见失っていた时代に、羽地朝秀は数々の政策で财政を立て直し、生涯をかけてその后の琉球王国の道筋までをも示した経世家でした。
                  □『中山世鉴(ちゅうざんせいかん)』を著す  王命により、琉球王国初の正史を编纂します。この歴史书は琉球人と日本人は元々同じ祖先であるという「日琉同祖论」に基づいて书かれてるのが特徴です。
                  □政治の最高地位「摂政」になり『羽地仕置(はねじしおき)』を実施
                   五十歳の就任时から七年の间に、朝秀が実施した政策をまとめたものが『羽地仕置』です。その内容は「质素倹约」「古い伝统行事の见直し」「役人の不正の取り缔まり」「风俗の乱れの规制」「士族への诸芸の奨励」「身分の明确化」など多岐に渡り、果敢に実施されました。
                  朝秀の政策は『黄金の箍(クガニヌタガ)』(箍=桶や樽を缔める金具のこと)を呼ばれ、琉球の人々の夸りを唤起し、生活にゆとりを生み出したと言われています。
                  参考资料『冲縄史の五人』『琉球・冲縄 歴史人物伝』

                  


                  IP属地:上海24楼2012-03-07 17:39
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                    尚宁王(ショウネイオウ)第二尚氏王统七代国王 (11564~1620)
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                    尚宁王は第二尚氏王统で唯一、浦添尚家出身の王であった。死后も首里の玉陵(たまうどぅん)ではなく浦添ようどれに眠っている。
                    1609年、萨摩藩の岛津氏は徳川家康の许しを得て琉球に攻め入った。岛津军三千に対し琉球も四千の兵を集め、港の 大炮も用いて応戦したものの、歴戦の岛津兵に首里城を包囲され遂に降伏にした。 时の国王・尚宁は岛津氏に伴われて江戸へ行き、大御所・家康と対面した。幕府は琉球に日明贸易の仲介役を期待していたため、尚宁を外国の王として丁重に遇し琉球王国の存続を约束したものの、同时に萨摩の琉球支配をも认めた。以后270年间琉球王国は日中両国の强い影响下で难しい国家运営を行いつつも、华々しい独自の文化を育てて行くこととなる。 尚宁王は琉球の大きな転换点で、国难を一身に受けとめた国王であった。
                    「よかてさめ兄弟 亲がなし御侧 我身や余所岛の あらのひと粒」 尚宁王
                    江戸に向う道中、尚宁王の実弟・具志头王子尚宏が病で急死してしまう。异国の地で支えを失った王の心痛は计り知れない。

                    


                    IP属地:上海25楼2012-03-07 17:39
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                      宜湾朝保(ギワン チョウボ)三司官 (1823~1876)
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                      十九世纪中叶、日本が明治维新を成し遂げた激动の时代。
                      若くして琉球政治の最高职・三司官に就任した宜湾朝保は维新を祝う使者として东京に派遣された。そこで新政府から琉球を日本の藩とし、国王・尚泰(しょうたい)を藩王とする诏勅が下され、使者一行は惊くが、宜湾は世界の大势とと自国の立场を鉴みこれを受诺した。以降、琉球を日本に取り込むための施策、所谓(いわゆる)琉球処分が段阶的に行われていった。
                      亡国の危机に濒した琉球王府では议论が沸腾したが、宜湾はこの様子を「众官の议、もっぱら己の门阀(もんばつ)を保つを先にする」と评し「ただ国家を安んずる」ために多难な琉球を新しい时代に导こうとした。しかし亲清派の士族达からは「売国奴」と呼ばれ、激しい非难の集中炮火を受けたため病に伏し、やむなく三司官を辞した。彼が忧闷のうちに没したその三年后、强権的に琉球王国は廃され冲縄県となった。
                      「野にすだく 虫の声々かまびすし たが闻き分けて品定めせむ」  宜湾朝保
                      宜湾朝保は当代一の国际感覚を持った政治家であり、琉球最大の歌人とも称された文化人だったが、失脚后は不遇な晩年を送った。

                      


                      IP属地:上海27楼2012-03-07 17:40
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                        牧志 朝忠(マキシ チョウチュウ)异国通事 (1818~1862)
                        ペリーをはじめ列强使者と渡り合った异能の通訳官。
                        牧志朝忠は中流士族の家に生まれ、21歳の时に北京に留学した。1840年、北京滞在中に鸦片戦争目の当りにした朝忠は、清の衰退と列强の恐ろしさを肌で感じ、琉球にもやがて异国の知识と言语が必要になることを确信していた。 帰国后は英语话者安仁屋政补(あにやせいほ)に师事するなどして英语力を磨いた。朝忠が通訳官となった顷、琉球王府は相次いで访れる欧米の商船や宣教师の対応に头を抱えていた。琉球は萨摩の意向も伺いつつ策を讲じるため、意思决定が非常に遅かった。しびれを切らし、时に武力をちらつかせて恫喝する欧米人に対しても理论的に対话し、博识で机転のきく朝忠は常に现场で必要とされ昼夜の别なく働き続けた。锁国の时代に、彼はアメリカの政情にも明るく、ペリーを惊愕させたという。 朝忠の有能ぶりは、萨摩藩主で开明派の岛津成彬(しまずなりあきら)から高く评価され、异例の大出世を遂げるが、皮肉な事に琉球内では妬みの标的にされてしまう。 顺风満帆に见えた人生は成彬のの急死により一変、対立派により反逆罪の嫌疑をかけられ、亲萨摩派とされた人々は投狱され死者が出る程凄惨な拷问が行われた。萨摩は彼を通訳官として召し抱えたいと狱中の身柄を夺取するが、上国の途上、彼は船から身を投げてしまったという。一跃时代の宠児となるような、活跃の场が开けた所での谜に満ちた急死であった。
                        「この青年は教育を受けた琉球の人々によくみかけるのとは违ってもっと浅黒い颜色をしていたし、また、その眼は黒く锐く、俊敏で油断のない颜付きをしていた」 ブロッサム号来琉记より
                        「初め朝忠 仏人に対し条约を拒否するや、提督勃然(ぼつぜん)として怒り、将士をして剣を抜いて之れに逼(せま)らしむるも恐怖の色なく、之を谕すに理を以てす。将士※莞尔(かんじ)として剣を饮む」 东汀随笔・続编より

                        


                        IP属地:上海28楼2012-03-07 17:40
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                          41楼
                          恩纳ナビ(オンナナビ)歌人 (18世纪中顷)
                          のびやかで情热的な爱をうたいあげた 农村の女流歌人
                          十八世纪 恩纳岳の麓に 天才的な歌咏みの娘がいたという。
                          マッコーという庭木がある家の娘だからマッコー屋ぬナビー と呼ばれていた。 当时の农民は封建的な様々の制约の中で生きていたが ナビは歌のなかでそれらの束缚を軽妙に皮肉ったり 恋人への思いを情热的にうたったりと 自由阔达に优れた琉歌を作り 広くその名を知られていた。
                          ナビ は贫しくとも 精神は纯朴で自由であった ひとりの冲縄女性として 现代に语り継がれている。
                          「波の声もとまれ 风の声もとまれ 首里天がなし 美御机拝ま」ナビ
                          …波の音も止まれ 风の音も止まれ 恭しくも国王様の お颜を皆で拝みましょう
                          この琉歌は尚敬王が北部を巡幸した际に立ち寄った万座毛の岬で人々の中から进み出たナビが 即兴で王に献じたものだと言われている。
                          绝対的な国王に対して沸き上る敬意を 雄大にうたい上げた名歌。
                          「恩纳岳あがた 里が生まれ岛 もりもおしのけて こがたなさな」ナビ
                          …恩纳岳の向こうに 爱しい人の村がある この邪魔な森を押しのけて こちらに引き寄せたいものだ森を押しのけるという大胆な発想と情热に惊かされる ナビの代表歌。

                          


                          IP属地:上海30楼2012-03-07 17:41
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                            湛水 亲方(タンスイ ウェーカタ)琉球古典音楽湛水流创始者 (1623~1683)
                            三线の基础を筑いた琉球音楽中兴の祖
                            现代 三线が冲縄を代表する楽器となっているのは、十七世纪の音楽家 湛水亲方の努力の赐物と言っても良い。 首里の名家に生まれ、时の大政治家・羽地朝秀の従弟でもあった彼は、才を见込まれて若いうちから萨摩に渡り见闻を広めていた。
                            当时琉球では大和芸能が奨励され、琉球音楽は低俗なものと见なされていたが、彼は国が夸れる独自の芸能の创作こそ肝要であると思い至り三线音楽の探求に一身を投じた。
                            时には作曲に没头するため仲岛という游廓にとじ笼ったり、音楽のよき理解者であった游女を后妻に迎えたことで名门士族にあるまじき放荡者と非难もされたが、彼は世评に动じず信念をもってついに己の音楽を大成させたのであった。
                            一时は首里を追放もされ毁誉褒贬の激しい生涯を送ったが、格调高い古典三线音楽 湛水流を完成させた彼は いつしか国王からも尊敬される存在となり、茶道头として再び首里に迎えられてからは 剃髪して自ら湛水の号を名乗った。
                            「露の身は持ちやり游びゆすや笑て 浮世ふり舍てていきやしがなや」
                            …人は皆 露のように
                             儚い身でありながら
                             私のような游芸に打ち込む者を笑う
                             できることならこの浮世をふり舍てて
                             自由の世界に行ってみたいものだ

                            


                            IP属地:上海34楼2012-03-07 17:42
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                              @堀川流云斋 


                              IP属地:上海36楼2012-03-07 17:45
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